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私の履歴書

7. 第三内科の後任教授に ― 臨床に励む

終戦後、出征していた医局員が相次ぎ復員、十分な研究は望むべくもなかったが、ようやく昔の活気が戻ってきた。しかしなかには長年の兵役のために医学の本筋を忘れてしまったような医局員も少なくない。東大が接収されるのではないかという危惧も薄れた。昭和21年9月に坂口康蔵教授が定年で退官された。現在はその年度末までだが、その当時は60歳の誕生日に退くことになっていたのである。

東大には三内科がある。三浦謹之助-島薗順次郎-柿沼昊作と続く第一内科、入沢達吉-呉建-佐々貫之の第二内科、青山胤通-稲田竜吉-坂口康蔵の第三内科である。さらに真鍋嘉一郎-三沢敬義の物療内科もあった。私は佐々内科の助教授であったから、坂口教授がやめられても後任問題はほとんど無関係である。それぞれの教室の出身者(地方の大学へ出ている者も含む)が後任に選ばれるのが慣例のようになっていたからである。仮に教授に選ばれるとしても、佐々教授のあとしかない。それも上海行きの件と言い、置かれている立場と言い条件はすこぶる悪い。

21年秋のある土曜日、私はやむにやまれぬ患者の往診を頼まれ箱根へ出かけた。一泊して日曜日に帰宅すると、玄関に迎えた妻が妙なことを言う。
「きのう田宮学部長から電話があり、あなたが教授に選ばれたそうですよ。『冲中君が断わらないように』とおっしゃってました」
「ばか言え、かつぐのもほどほどにしろ」
私はとり合わなかった。そんなことがあろうはずがない。きっと何かの間違いだろう。だが、月曜日の朝、出勤しようとしている時、田宮学部長から再び電話がかかった。
「君、電話で奥さんに伝えておいたように、坂口内科の後任教授に決まった。登校したら私の部屋に来たまえ」
この時の驚きは、どう表現していいかわからない。奇跡が起きたのだ。
取るものも取りあえず学部長室にかけつけたが、「君の首になわをかけても引っ張っていくよ」の一言に、私は「お引き受けします」と、頭を下げた。田宮学部長もホッとされたようだ。土曜日に電話で知らせたのに、私からは何も言ってこない。ことがことだけに、私が断るのではないかと懸念しておられたのであろう。

後任教授の選考は、ざっと次のようなプロセスを踏む。まず学部長が教授全員に、全国の大学から適任と思われる人(内科の場合数十人)をリストアップしてもらう。次いで、5、6人の選考委員が選ばれるが、これにはやめる教授は加えない。やめる教授の発言権は小さいのが普通である。選考委員は慎重に検討を重ねた末、候補者を3人に絞る。そこで教授会の投票に移るのだが、投票は必ずしもこの3人のなかから選ばなくてもいいことになっている。

坂口教授の後任候補者には塩沢総一(当時助教授・故人)、坂本秀夫(同分院助教授・故人)、それにもう一人計3人が選ばれた。しかしこの3人のなかには私ははいっていなかった。教授会でいざ投票という段になって、もめにもめた。当時いちばん若い教授であった小川鼎三氏(現順天堂大学教授)によると、選考委員会が選んだ3人の適不適が問題というよりも、むしろこれまでのしきたり通りの選出でいいのか、このへんでそれを打破しようではないかという声が大きく出てきたのだという。三人による決選投票は行なうに行なえない状態となった。窮余の策としてあと二人追加することになり、この2人の一人に私が加えられたのである。前代未聞の5人投票の結果は、私が大差をつけていたという。

かくて21年12月「東京帝国大学医学部医学科内科学第三講座担任」を命ぜられた。すべて異例ずくめのうちに教授就任となったのである。満44歳というのも異例の若さであった。

外の空気を吸って"武者修行"することなく、ずっと東大だけで育った私はしあわせ者と言えよう。それまでにも、外へ出る話はいくつかあった。呉先生がなくなられる直前、名古屋大学へ行く話も持ち上がっていた。姫路日赤病院の内科医長として誘われたこともある。教授に選ばれる少し前には、熊本大学からお声がかかった。この時は先輩の小宮悦造教授が上京して、強く要請され、私の気持ちも動きかけたが結局お断わり申し上げた。それぞれ理由あってのことではあるが、その時の私の心情は複雑で今はっきり表現できない。つまるところ研究を中断したくないという気持ちもあったし、佐々教授のやめられる数年後を一応のめどとし、自分の終生の道をきめようという気持ちもあったようだ。

教授就任は私にとって青天の霹靂であったと同時に周囲の人々にも予想外の人事と映ったに違いない。人身御供という同情や、将棋の桂馬だと祝福してくれる人などさまざまであった。田宮学部長の英断だと憶測する人もいたようである。

だが、新しい教室は非常に明るく、全員がこぞって歓迎してくれたことが私の不安をどんなにやわらげてくれたことか。歓迎の新年宴会では3階の第2内科から2階の第3内科まで胴上げをしながら運ばれて来たので、酔いは回る、胸の時計の鎖はひきちぎれるなど大変な騒ぎとなり、ついには酔いつぶれて教授室のソファで眠りこけてしまったものである。酔いつぶれたのは、あとにも先にもこの時以外ない。

さて、教授となって私は3つの目標を立てた。ひとつは呉先生のころからやってきた自律神経を中心とした研究に、いっそう精進することである。第2は教育者として当然であるが、講義には決して手を抜くことなく、全力投球をすることである。そして第3に臨床能力を高めるという目標をかかげた。

はじめの2項目は、実績もあり、自信もあった。講義の前夜は泊まりこみで勉強することも少なくなかったし、泊まらないまでも夜おそくまで文献に当たり、講義録を作った。朝は7時ごろ病院に出て臨床講義の対象になる患者を診察したうえで講義を行なった。今後もその姿勢をくずすことなくやればいいだろう。だが第3の目標はいささか自信がない。

これまで臨床に力を入れなかったわけではない。実験、研究に主力を注いできたとはいえ、人並みにはやってきた。が、何しろ青山-稲田-坂口と三教授とも臨床で世に聞こえた方々である。その後任だからなんとしても荷が重い。しかし研究者呉建、臨床学者稲田竜吉の両大先輩のいいところを受け継ぎ、生かすのが私の使命である。とすれば苦労などものの数ではない。

臨床のウデを上げるには、不幸にしてなくなった人の病理解剖を可能な限り行ない、学問的な追究をすることが最も重要である。自分が行なった臨床の診断と治療がマトを射たものであったかどうかは剖検で初めて確かめられる。この点外科では早い話、手術をすればたちどころにわかる場合も多い。しかし内科では病理解剖という裁判の被告席に立って結果を聞く以外に確認のしようがないのである。

病理解剖はパーセンテージが低ければ意味がない。こちらのとった措置に判定が下らなければ、措置が誤りかどうかわからずじまいになってしまう。これでは霊も浮かばれないし、学問的な積み重ねによって、あとの診断と治療に生かすことが出来ず、医学の進歩は望めないのである。当時大学病院の剖検率は50~60%程度であったが、出来ることなら90%にまでは持っていきたいと努力した。

剖検率を高めることは、患者によい診療を与え、医師にもいい勉強となる。患者が不幸にしてなくなった時は、医師は被告席に立つわけだから、いいかげんな態度は許されない。剖検をしない時の診断がいいかげんというわけではないが、いっそうの真剣さと慎重さが加わるわけだ。患者側にしても、これほど熱心にやっていただけるのはありがたいことだ、ということになる。

剖検の承諾が得られない時は、非常に不愉快になる。承諾しなかった身内の方々に対して不愉快というわけでは決してない。自分たちの努力が足りなかったのではないか、間違いがなかったかどうか、そうした点がすべてうやむやになってしまうからである。

はじめの5年間は無我夢中だった。まさに寝食を忘れて打ち込んだ。二晩続きの徹夜になることもあった。明け方、白衣のまま教授室で仮眠することも珍しくなかった。剖検率も2、3年のうちにぐんぐん上がってきた。ほかの教室や東大以外でも、剖検率が高まり、最近では大学以外の教育病院でも剖検率がぐんぐん上がって来ている。ところが思わぬところからクレーム(?)がついた。病理解剖を引き受ける病理学会からとても手が回らないというのである。病理解剖がふえると、病理学教室としては質量ともに充実しなければならないからである。しかしわれわれ内科学会としてもこれに報いるために援助する責任もあるわけだ。

私は今でも診断とは実にむずかしいものだと思う。患者を診るのがこわいくらいである。世の中には医者も患者もわからないまますまされている間違いがたくさんあるのではないかとも思う。それこそ本当の誤診である。だから私は若い医師に口をすっぱくして「初心に帰れ。いつまでたっても未熟だと思え。自信を持ったら最後だ」と言いきかせている。

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