Warning: include(../ga.php) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/0/main.jp-18755388ab233564/web/pub/history/book1/index08.php on line 73

Warning: include(../ga.php) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/0/main.jp-18755388ab233564/web/pub/history/book1/index08.php on line 73

Warning: include() [function.include]: Failed opening '../ga.php' for inclusion (include_path='.:/usr/local/php/5.3/lib/php') in /home/users/0/main.jp-18755388ab233564/web/pub/history/book1/index08.php on line 73

私の履歴書

8. 自律神経の研究に恩賜賞 ― はげの効用

長い学問生活を通じて、私は自律神経系に関する研究に打ち込んできた。内科学のなかでもこの分野に足を踏み込んだのは、呉教授がその道の世界的権威であったことと、昭和6年の外遊で世界一流の神経学者に接したのがきっかけになっている。私の研究が独自の方向に進んでいったのは恩師没後の昭和15年ごろからである。それまではひたすら師の命ぜられるままの毎日でいわば受け身の研究者であった。しかしその間の蓄積が、しらずしらずのうちにわが五体にしみ込み、のちの研究の土台となったことは想像に難くない。

師は自律神経の分類という偉業をたてられた。その方法は神経を形や太さ、大きさ、髄鞘の有無などから把握する形態学的分類である。世界的にもガスケル、ラングレー、ストリッケル、ベーリス、ミューラー、シェリントン、ヘーリングら形態生理学的分類学者が大勢を占めていた。

しかしひとり立ちして研究を進めていくと、副交感神経の一方の代表者である迷走神経において、師の分類に当てはまらないものが出てきた。そこで私は形態学的アプローチとは別の方法を採用することにした。「先人と同じ方法で追試しても新しい知見が出るものではない」という師のことばを実行に移したのである。

そのころレビーやデールらによって神経化学伝導学説が唱えられており、私はこの学説をもとにして、神経細胞、線維を化学的に把握する方法をとったのである。つまり、神経を特殊な方法で化学的に染色することによって、機能と形態を同時に観察するやり方である。この組織化学的アプローチは、師の分類を訂正したのみならず、私のさまざまな研究成果の基底となっている。

たとえば末梢の自律神経では、交感神経線維、副交感神経線維のどちらか一方が存在するのではなく、どの部分にもいろいろな割合で両者が混合し、優性な方がおもてだった働きをしていることが証明出来た。

また、冠動脈は一般の血管とは逆に交感神経は拡張、副交感神経は収縮に働くという見解が一般的であった。しかし私たちの研究結果では「冠動脈においても一般の血管と同じで交感神経は収縮、副交感神経は拡張に働く。しかし実際に逆の神経支配と見えるのは冠動脈刺激に際して心臓や全身の血行動態、心筋代謝の変動による二次的な影響におおわれているためである」という結論に達した。

組織化学的アプローチによる自律神経系の再検討が一方の柱とすれば、もう一方の柱は、同じ観点から、内分泌腺のコントロールに自律神経がどのように作用するかの解明に進んでいったことがあげられる。

世界的にはこの方面の研究の進め方に二通りある。ひとつは生体の現象を大脳から末梢にいたるまで総合的に観察しようとするソ連を中心とした行き方(パブロフに代表される)であり、もうひとつは生体を細かく分析し、化学的、体液的に解明しようとする欧米学者の進み方である。一方は神経一本やり、他方はホルモンあるいは体液中心というわけである。

そこで私はこの両者の境界に立ち、内分泌腺、さまざまな臓器の調節・支配の究明に、ソ連型と欧米型をともにとり入れた神経-化学的方法をとることにした。この立場にたって、すい臓インシュリンの分泌、甲状腺ホルモン、副腎髄質・皮質の支配のほか、脳の中枢の視床下部、辺縁系による調節機構を総合的に研究していった。

長年の研究をふり返ってみると、それまでの定説を訂正、補足したり、また私自身のたてた仮説、推論を確認、修正し得たことも少なくない。一方、新しい知見の展開によって未知の世界は広がり、研究の道はさらに長く、遠いことを痛感する。昭和36年には「自律神経系に関する研究」で学士院恩賜賞の栄誉に浴したが、それをマラソンの折り返し点と見たてて、その後も精一杯走り続けている。

神経系統とか内分泌腺、病理解剖などといった話は、医学に縁のない方々には苦手だろう。ここらで肩ほぐしのつもりで軽い話をひとつ。

人には"なくて七くせ"があるという。だが、くせというものは、自分では知らず知らずのうちにやっているものである。それだからくせになるのである。

人によく言われる私のくせのひとつに、頭にすぐ手がいくことがある。困ったとき、笑ったとき、照れたとき、無意識のうちに頭をなでている。

私の頭は見事に光っている。形も大きい。(ついでながら頭の大きさと頭脳のよさとは一致しない)口さがない友人は"冲中入道"などと評する。法衣をまとえばぴったりだとからかう。しかし、はげていて損をしたことは一度もない。かえって貫禄のある医者と見られることの方が多かったのではなかろうか。

どうも髪がよく抜けるな、と気づきはじめたのは大学のころである。夏でも必ず帽子をかぶっているから、頭がむれて抜けるのだろうとも思ったが、父が禿頭であったことを思えば、やはり遺伝なのだろう。だが結婚相手も少年のころから決まっていたのだから、薄くて悩むこともなかった。

昭和6年に呉教授と外遊したとき、私の方が薄いものだから(呉先生は黒々した剛毛だった)、欧米の学者が、私の方を先輩格に見たことがある。すると呉先生は、自分が若く見られたと思って上きげんなのである。

かく言う私も、昔は、薄いてっぺんを隠そうと、いわゆる"すだれ"にしていた。"すだれ"にしておくと、風の強い日や、電車に乗ったときに、一苦労する。電車に乗ったときなど、分け目の方から風が来るように向きを正さなければならない。逆にすわろうものなら、せっかくなでつけた髪がアッという間にだいなしになってしまう。そのうちに分け目をだんだん耳に近い方におろしてこなければならなくなったが、そうかといって切ってしまうふんぎりもつかない。ところがある日、田宮猛雄教授が、からかい半分に「なんだ冲中君、未練がましい。僕みたいに切ってしまえよ」と言われた。田宮先生もテカテカである。

田宮先生が階段教室で講義をしておられると、二階からひらひらと一枚の紙が落ちて来た。拾ってみると円が一つ書いてあり、横に「注、教授を上から見たところ」とあったそんなエピソードもあるほどの方だから、ご想像いただけると思う。

田宮先生の一言で私のハラは決まった。構内の理髪店に飛び込むと「全部短く切ってくれ」と頼んだ。店主は目を丸くして驚き、「いいんですか先生、本当に」と念を押したものである。まるぼうずにしてもらってほんとうにせいせいした。

頭ははげているが額から下は若々しい。だから帽子をかぶると別人のようになるらしい。臨床講義を終え、帽子をかぶって廊下に出ても、知らんぷりをして通りすぎる学生もいる。当時は学生が先生とすれ違うと、必ず礼をしたものである。ところが帽子をかぶると人相が一変して、私だとは思わなかったのであろう。

また高橋忠雄教授によると、こんなこともあったそうだ。私が医局員と一緒に野球をしていた。患者が二人見物しているところで高橋君も立ちどまってみていると、二人が「あの二塁手は冲中先生だろう」「違うよ、あんなに若くないよ」とささやいている。そのとき、二塁にボールが飛んで来て追っかけたら帽子が飛んだ。「それ見ろ、冲中先生じゃないか」

私は今も、春夏秋冬、帽子を欠かさずかぶる。この年になって、他人の目を意識して、というわけではない。道を歩いているとき、上から物でも落ちて来てもクッションがない。いわば危険防止のための帽子である。

Copyright © 2024 冲中記念成人病研究所 All Rights Reserved.