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私の履歴書

9. 石橋首相を診断 ― 神経学会設立への奮闘

昭和30年を過ぎると"もはや戦後ではない"と言われ、医学の世界でも随所で戦前をしのぐ様相を呈してきた。ノイローゼということばがはやり始めたのもそのころからである。私自身、教授に就任して10年、内外に冲中内科の存在が知られるようになり、仕事にあぶらの乗り切ったころであった。そんなある日、難問中の難問が持ち込まれた。時の首相石橋湛山氏の病状が思わしくないので、最終的な判断を下してくれというのである。

石橋氏は31年12月に鳩山一郎氏のあとを襲い内閣総理大臣および自由民主党総裁に就任した。ところがそのころから、からだの具合が悪くなり翌年1月30日から第26回通常国会に出席出来なくなった。主治医の村山富治、杏雲堂病院院長佐々廉平両氏の診断では「老人性肺炎のため、二週間の就床安静と、その後一週間の静養を要す」ことになり、施政方針演説も行なえない。やむなく政府は首相臨時代理に岸信介外相をあて、演説も代行という異例の措置をとった。

先の診断で三週間のタイムリミットが設けられたが、首相の容体はその間、はかばかしくない。野党は国会に出られない首相に退陣を迫るし、与党内でも反主流派の動きは活発になってくる。そのころを新聞は「まるで国の政治全体が病気になってしまった」とか「首相の病状も政治的診断へ」と伝えている。あと一、二週間すれば全快して首相の激職に耐えられるか、その見込みがないのか、政府はギリギリのところに追い込まれた。そこでタイムリミットの2月22日午後6時から最終診断を行なうことになり、二人の主治医のほかに聖路加病院院長橋本寛敏氏と私とが名ざしされたのである。なぜ私が選ばれたかはわからないが、とにかくどんな診断が下っても、どこからも文句が出ないような人選がされたらしい。とすると私どもの責任は特に重大だ。石橋内閣の、ひいては一国の運命を左右する岐路に立たされたのである。

仮に私が、あと二週間も安静にしておればいいと診断して、二週間後も勤められない状態となれば、とんでもないことになる。東大教授として大失点になるばかりでなく、医学のレベルも問われかねない。政局もまた麻のごとく乱れるだろう。私としては立場上、絶対間違ってはいけないのである。

その朝、心電図をとるために医局員を石橋邸へ送る一方、私は文京区西片町の佐々廉平氏宅へ車を走らせた。これまで聞いた大ざっぱな話で、どうも腑に落ちないところがある。佐々先生の診断と、あからさまな胸の内を聞いておきたいと思ったからである。それに一医師として、これまでの経過を確認しておくのは当然のことである。

周囲も(佐々先生も)出来ることならさらにもう二週間くらいの静養をしたのち、政界復帰を望む空気が強かった。人情としても当然だし、また、なおるかもしれないという希望的観測もしたいところだろう。佐々先生は「小刻みに日をかせいで延ばしたいが、二、三週間でメドがつきそうにない」ことを相当程度理解しておられ、苦しんでおられたようだ。そこで最後に私は「先生、まことに申しわけないが、私が首相を拝見した結果、仕事がやれそうにないと判断したら、先生のご意向にそむいても、そう言うつもりです」と了解を求めた。尊敬する佐々先生に対して、こう言わざるを得ないのは、何といっても心苦しかった。

石橋邸へは5時に乗り込んだ。6時から4人による診断を行なったが、おもにみたのは私である。病状はやはり私の予想した通り肺炎のほか不整脈、三叉神経痛、言語障害があり、早急に全快するとはとても言えない。しかも臨床上、私の最も得意とする分野の病状であっただけに自信をもって断を下した。生命にかかわる性質のものではないが、首相の激務にはとても耐えられる状態ではない。

6時半に診断が終わり、9時半の記者発表までの3時間、4人の医師と首相側近の方々とで、どういう表現をとるかを議論した。診断書も私が全部書いたのだが、結局二カ月間静養ということに落ち着いたのである。このことは首相の職を辞さなくてはならないことを意味する。それにつけても石橋氏の態度は立派であった。私たちが議論している時からすでに、挂冠の辞を練っておられたようだが、結果をきいていてもまゆひとつ動かすことなく、静かに従われた。

私は医学者として筋を通した。なおる見込みが50%でもあれば、あるいは妥協していたかもしれない。しかし、この場合妥協の余地はなかった。「石橋首相容態書」は今も書斎の重要書類入れの奥に、大切にしまい込んでいる。

長年、神経を研究の柱としてきた者にとって、つねに不満だったのは神経科の研究・臨床治療が先進国に比べて大きく水をあけられていることであった。神経科のメッカと言われるフランス、さらには英国などではすでに19世紀から取り組んでいるというのに、わが国では精神科、内科、外科の谷間に寂しく取り残されていたのである。それというのも、原因がつかめないし、なおりも悪い、治療もむずかしいからである。精神・神経の病は十把ひとからげに扱われ、なおる見込みの少ない業病と受け取るのが一般的でもあった。 しかしスモン病や水俣病が、主として神経系の疾患であるのを見てもわかる通り、いまや神経を抜きにした内科学はありえない。

昭和21年、教授になりたてのころから、私はわが国の神経医学発展のためには、なんとしても純粋な神経学会を設立しなければならないと思い、努力してきた。古くから日本精神神経学会というのがあるにはあったが、これは主として精神科のグループで、本当の神経学ではない。そこで教授になった翌年ごろ、この学会の評議員会で「学会は精神科と神経科に二分すべし」と、爆弾動議を出した。これにはずいぶん反撃も受けたし、うらまれもした。孤軍奮闘でがんばったが、なかなか同意を得られない。

こうなったら、たもとをわかって独立する以外にはないと考え、31年に内科神経同好会というグループの旗あげを行なった。年々会合を開くうちに全国から会員が集まってきたので、ついに35年4月、福岡で「第一回日本臨床神経学会」(会頭勝木司馬之助九大教授)の発足にこぎつけたのである。これが出来るについては、米国、英国、フランスなどの一流の学者や、名古屋大学の勝沼精蔵先生(血液学)、京都大学教授の前川孫二郎氏(故人、循環器)、東大教授清水健太郎氏(脳神経外科)らが暖かい援助の手をさしのべてくださった。日本医学会の分科会加入もいっぺんで認められたし、、日本精神神経学会や外科の方からも、神経学に興味をもっている人はこちらにも来てくれ、権威のある学会となったのである。

それにつけても、もし明治のころ神経学講座が設けられていたら、おそらく先進国に、20年も遅れをとることはなかったであろう。明治27年、わが国神経学の草分けである三浦謹之助先生の努力により、衆議院に「脳脊髄病理教室設立の建議」が出されたが、通らなかったという事実がある。先見の明がなかったと言っていいと思う。(ついでながらこの建議の中に面白いことを言っている部分がある。助手等の経費は「無論斯ノ如キ須要ナ学科ニ対シテハ給料ヲヤラズデモスルモノガアリマスカラ、是ニハ入費ハ掛リマセヌ」とある。医局員が無給なのは当然としていた風潮が読みとれる)

日本神経学会設立が一段落したところで、37年にはアジア大洋州神経学会を作り、私が会頭になってその年、東京で第一回会議を開いた。アジアの神経医学振興を目的としたもので、今も四年おきに各国で開催している。

学会設立の努力もさることながら、すぐれた神経学者の養成にも力を注いだ。今や全国の神経学者の大半は、どこかで私とつながりがあるので「冲中先生が全部配下に収めてしまった」などと評する向きもあるそうだが、私はいわゆる"種まき"の努力をしてきたと思っている。学者は一朝一夕に生まれるものではない。長い地道な積み重ねがあってのちに、日の目を見るものである。

私が東大で老年病学の講座を設けるについては、二つのねらいがあった。ひとつは将来、老齢人口の増加に伴い老人病も飛躍的に増加するであろう。しかも世の中は老人にとってますます暮らしにくい条件がふえていくことである。もうひとつは、浴風会病院院長で老人医学に心血を注いでおられる尼子富士郎先生に教授になって来てもらえば、間違いなく充実した講座が開設出来ると思ったからである。ところが医学部から文部省に申請しても、なかなか認めてくれない。7、8年たった37年にやっと認可になったので、尼子先生に来てもらおうとしたら、もう定年をすぎておられる。それなら言い出しっぺのところへ、というわけで、老年病学教授も兼任したわけである。日本で初めての老年病学講座である。わが国老年病学草分けの一人である尼子先生に来てもらえなかったのは、かえすがえすも残念であった。しかし、私がやめた後、第二代は吉川政己教授がなり発展しつつある。

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