Warning: include(../ga.php) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/0/main.jp-18755388ab233564/web/pub/history/book1/index11.php on line 73

Warning: include(../ga.php) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/0/main.jp-18755388ab233564/web/pub/history/book1/index11.php on line 73

Warning: include() [function.include]: Failed opening '../ga.php' for inclusion (include_path='.:/usr/local/php/5.3/lib/php') in /home/users/0/main.jp-18755388ab233564/web/pub/history/book1/index11.php on line 73

私の履歴書

11. 虎の門病院院長に就任 ― 文化勲章受章

東大入学から一度も他の大学とか病院に出ることのなかった私だが、60歳の定年で第二の人生を踏み出すことになった。定年間近になると、あちこちから"お座敷"がかかったが、いちばん熱心に誘ってくださったのは国立東京第一病院である。教室の人たちも「東一なら最高だから行かれた方がいいですよ」と勧めてくれた。

しかし私には東大在職中から虎の門病院という"いいなずけ"があった。当時、国家公務員共済組合連合会理事長の今井一男氏を中心とした青写真作りの段階から、ずっと参画しており、33年5月に発足してからも顧問として名を連ねていたのである。

開院当初、院長の自薦他薦が目白押しにあったが、私は迷うことなく大槻菊男先生(当時東一の副院長、現在は虎の門病院特別顧問)にお願いすることにした。大槻先生は初め、なかなかウンと言われなかったが「君が来るまでなら」ということで、やっと引き受けていただいたのである。

38年6月、虎の門病院院長として赴任した。その前5月、宮内庁から「内廷の医事に関する重要事項に参与すべし」という辞令をいただき、天皇ご一家のご健康の相談にあずかることになった。同じころ東大名誉教授、また翌年、日本学士院会員に推薦された。病院長は想像していた以上に大変な役である。何よりも人の和に細かく気を配らなければならない。教授の人事管理は医局員へのさし図や指導がうまくいっていればほぼこと足りたが、病院にはさまざまな職種の人々が従事している。こうしたあらゆる職種の人たちをわけへだてすることなく、意欲的に仕事に取り組んでもらうにはどう統括すればいいか、私には初めてのことだけに心をくだいた。

しかし、さいわいなことに今井理事長をはじめ、大槻先生、分院長の浅井一太郎氏、事務部長の石原信吾氏、看護部長の幡井ぎんさんら、経営人事面も診察・看護面もすぐれた方々の集まりである。また開院してから私が赴任する五年の間に、将来の地ならしもされていた。私は衆知を集め、花を咲かせればよかったのである。

自慢めくがこの病院は医療レベルではトップクラスにはいると思う。というのも従業員、設備、制度、三拍子そろって私の理想とする姿に近いからである。医師・技術者はみんな腕ききだし、看護婦も全員正看をそろえている。設備・制度面では41年9月、川崎溝の口で発足した分院がユニークな存在である。

分院の正式名称は回復期・慢性疾患治療センターと言い、外来患者はいっさい受け付けない。本院で治療をして回復途上にある人、リハビリテーション訓練を要する人、一生補助機具の世話(たとえば腎臓機能の喪失した患者に人工腎=人工透析法=をほどこすなど)にたよらねばならない人たちを治療するところである。本院と分院の機能をはっきりと区分して総合的に運営しているところは、世界でも数えるほどしかなく、時代を先取りしたやり方と言っていいだろう。

そのほか各科を細分化して専門色を強めたことも特徴である。内科なら血液、内分泌、呼吸器、消化器、神経、循環器の六部門、外科では一般、胸部、腹部、脳神経の4部門に分かれている。各部門ごとに主任医員制度を確立して主治医権を持たせたこと、レジデント(病棟医)制度によって卒後教育の充実を図っていることなどもある。私の長年の念願が、ほぼ満足されているわけである。

しかし、これで十分とは言えない。本院も、分院も質量ともに、もっと拡大充実しなければならないし、看護学校もほしい。専門化や機械化を進めるに従い、各科のすき間を埋める単純技能者が必要になってくるが、人手不足の時代なので、応募者が少ないのも頭痛のタネである。医療のレベルを上げれば上げるほど赤字は累積してくる。

こうしたなかにあって、一つの明るい見通しは、病院付属研究所の設置計画がすすめられていることである。しかしこれは困難な仕事であり、外部からの資金導入が必要である。大学ほど完璧なものではなくても、医療レベルの向上のために病院には基礎的な研究施設がどうしても必要なことを、一般の方々にも理解していただきたいと思う。

70年代は激動の時代と言われる。私にとっても70年は激動の幕あけにふさわしく(?)二つの大きな出来事に遭遇した。春の「よど号」乗っ取り事件と、秋の文化勲章受章である。

3月31日、12時から福岡で開かれる日本内科学会理事会に出席するため7時少し前、福岡行きの日航第1便「よど号」に乗り込み、いつものように真ん中から後方の通路側に席をとった。7時21分、予定より10分遅れて飛び立ったが、この機内で例のハイジャック事件が起きたのである。

ことの成り行きは詳しく報道されたので途中経過は、はしょって述べよう。福岡空港に着陸中1時すぎだっただろうか、子供と老人は降ろす交渉が成立し、関西なまりの強い、リーダー格の男(あとで主犯の田宮とわかった)がマッチ箱の裏に降ろす者の名前を書きとめていった。私のところで、立ち止まりしばらく頭をながめたのち、名前、年齢をきく。「冲中、69歳」と答えた。しかし本当は67歳であった。70歳と言えば、「お前、ウソだろう」と言われて、降ろされない恐れがある。69歳なら、まずぎりぎりのところだろう、と瞬間的に判断したのである。そうした微妙な"読み"が出来るだけの冷静さを保っていたわけだが、この時も禿頭のご利益にあずかったと言えよう。

田宮はそのとき、私が何者であるかを知らなかった。しばらくして仲間に聞いてきたのだろう、再び私のそばへ来て、「お前は東大の冲中か」と言う。仕方なく「この間まで東大にいた冲中です」と答えたら「東大は権力の巣くつだ」とか何だとか激しく罵倒した。こんな身元がバレれば降ろしてはくれまい、みんなを降ろして「お前だけ人質だ」と言われる恐れもある、と半ば観念したが、不思議に罵倒しながらニヤニヤしている。それまでは目をつり上げていたのに、ニヤニヤしているので、あるいは助かるのかもしれないという希望も半分持てた。それにしてもあの笑いはどういうことなのだろう。結局1時半すぎ、まだ機内にとじ込められている吉利和君(東大教授)、日野原重明君(聖路加病院内科医長)ら数十人の身の上を気づかいながら子供や老人ら23人の一人として釈放されたわけである。

降りると警官からたっぷり3時間、調書をとられた。顔写真の並んだアルバムを見せ、この中に犯人はいたかと聞くが、田宮以外はさっぱり思い出せない。日ごろレントゲン写真を数えきれないほど判読しているが、しょせん病名がつかなければ人の顔はおぼえていないものらしい。しかし、この事件でショックを受けたのかそれ以後血圧の動揺が大きく、時々目まいがして勤めを休むこともあった。そこで9月には三週間、こっそりこの病院に入院しやがてすっかり回復した。

さて、秋も深まった10月の20日すぎ、自宅で夕食をとっているとき、電話のベルが鳴った。文部省大学学術局長の村山松雄氏(現事務次官)からで、「先生、文化勲章に決まりましたがお受けになりますか」と切り出された。
これには面くらった。私もかつて選考委員になったことがあるが、候補者の業績とか経歴が出されていることが多かったようだ。ところが東大教授に選ばれた時もそうだったが、こんども抜き打ち通告だ。それに私はまだ70歳にもなっていない。しかし大学時代の地道な研鑽、一貫して医療レベル向上に尽くした努力に報いるためとあれば、断わる道理はない。私個人ではなく、ともに歩んできた方々に対する顕彰と理解して喜んでお受けすることにした。

祝賀会は関係しているところが何回か催してくれたが、かつての冲中内科を中心とした祝賀会には、昔、呉内科時代の看護婦さん等も出席して下さったのをはじめ、多くの人々から祝福していただき、つくづく人の心の暖かさをかみしめたのである。

Copyright © 2024 冲中記念成人病研究所 All Rights Reserved.