Warning: include(../ga.php) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/0/main.jp-18755388ab233564/web/pub/history/book2/index03.php on line 64

Warning: include(../ga.php) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/0/main.jp-18755388ab233564/web/pub/history/book2/index03.php on line 64

Warning: include() [function.include]: Failed opening '../ga.php' for inclusion (include_path='.:/usr/local/php/5.3/lib/php') in /home/users/0/main.jp-18755388ab233564/web/pub/history/book2/index03.php on line 64

医学の進歩と医の倫理

医療と倫理-まだ若い後輩たちへ-

医学の進歩と医の倫理

第3話"弟子たち,患者さんたちの語る冲中重雄先生"
東京大学名誉教授/冲中記念成人病研究所理事長  三輪 史朗

「我が師冲中重雄先生」1)という書は,先生の薫陶を受けた門下生一人一人の心の中に生き続ける冲中重雄先生の姿を綴ったものである。100編を超える文からなっており,先生の三回忌を迎えようとする1994年3月に出版された。冲中内科教室に学んだ,医学部卒業年度が昭和9年から昭和36年の28年間にわたる弟子達が,先生の門を叩き,教えを,そして感銘を受けたことの中でも,最も心に刻み込まれていることを記しているが,その誰もが例外なく先生を讃える言葉は「人柄」であった。今回はこの本に載っている門下生達の言葉を中心にし,或いはそこに引用してある患者さんの言葉を引きながら,先生の「人柄」に触れていきたいと思う。前回同様,ただ「先生」としたところは冲中重雄先生のことである。注釈はやむをえない場合以外つけなかった。各筆者の記述がなにより心中を吐露しているからである。引用にあたっては,前もって筆者の諒承を得ることをしなかった。なにとぞお許しいただきたい。

患者診療の場での冲中先生:

診療が終わったのち患者には「この病気には辛抱が要り,まず気持ちをらくにし病気と仲良しになって病気と共存しあえるよう工夫すること,そして医学の進歩を信じ我々医者と一緒に頑張りましょう」と諄諄と説き,時には一病息災の理も語り患者の身になって励まされた。その時の先生の眼の優しさは慈父の心を湛えて,素晴らしい仏像の前にいるようにまで感じた次第です。先生は名医であり,慈医であり,比類なき碩学碩徳であられたのです。

患者がある時先生のことをこう言いました。「診療の時の鷹のように鋭い目,さて説明の時の温顔が印象的です」と。

(虎の門病院で)先生の診療を受けつつ亡くなったご主人を持ち,現在出家して尼さんになっておられる方から筆者にいただいた手紙の一節をそのままここに引用する。「主人が多発性骨髄腫でお世話になりましてより早や22年になりました。冲中先生,浅井先生はじめ病院中の皆様にお世話になりました日々のこと忘れられません。私も出家して10余年修行の日々をすごしてより岡山,三重,奈良とわらじを脱ぎ,只今は,八王子の大善寺という寺をお守りしております。霊園がついており日々供養申しあげ,読経三昧という生活をしておりますが,思いもかけず当墓苑に冲中先生の御墓所のありますことを知り,夢かと存じました。早速香華読経とお詣りをさせていただきました。不思議と申しましょうか,夢のようでございました。先生は主人に,「いま我々が貴方の病気を直す治療法を研究していますから,直ったときボケてしまっては困るから勉強してくださいよ」と申され,主人は最後まで寝たきり午後2時間読書をしておりました。もう最後の頃「貴方に患者として最優秀賞をあげましょう」と申してくださいました。亡くなる三日前「○○さん!冲中ですよ,わかりますか」「はい」「○○さんは心臓がつよいんですね。頑張ってね」。そして私に「患者もつらい,だけど医者もつらいんだよね。わかってね」といわれ,私は,あっ!と何となくすっと楽になりました。解剖所見「全身骨破壊,第五,七胸椎骨折,骨髄腫腎」も先生から説明をうけました。生きる事を夢見て最後の最後まで命の炎を燃やし続けた主人は,本当に虎の門病院のお世話になりました。勿論主人の菩提を弔う為ではございましたが,多くの戦没の方々のご供養もと,護国寺で出家させていただきました。まさか先生のお墓をお守りできましょうとは思いもよりませんでした。貧者の一灯何卒お納め下さいませ」とありました(冲中記念成人病研究所にご寄付いただいた)。この手紙は,短い文章の中に,70歳を越え,円熟大成された先生のお人柄を見事に語っている。

弟子が感じた先生のお人柄:

先生は宮崎,鹿児島と行く先々の集会で連日講演をされたが,文字通りカバン持ちの私は緊張の連続であった。・・・・さて,すべての予定の講演が終わったとき,冲中先生は私を伴って自ら霧島温泉に宿をとって下さった。夕食には日本酒を所望されたが,どこでご存知だったのか「君は相当飲めるらしいね」と言って存分の酒をふるまって下さった。学問の許は一切なさらず,その夜は初めて見る別人のような冲中先生,慈父のような温かさを感じたものである。・‥‥・別府で先生とお別れしたが,二日間の暇をいただいて私は郷里の熊本に帰り,やっと羽を伸ばした。医局に帰って見る冲中先生は,いつもと変わらないきびしい学問の鬼であった。

先生は几帳面な誠実な方で,教室員の躾は厳格そのものでした。御蔭で私などでも一人前の臨床医になれました。然し一歩学問からはなれると,性格の明るい温情あふれる方で,私共の方から気安く「先生今日は」とご挨拶したくなる雰囲気をおつくりでした。

先生は努力家で自制力があり,怒りや不安を表に出さない人であったが,機嫌のよい時の先生は本当に爽やかな浩然たる人であった。あのような浩然の気が自ずと身に具わった人を私は知らない。素晴らしい資性であった。

気が弱い方という点では,テレビやラジオに出るのをしばしば断られるので,理由を伺ったところ,「テレビやラジオは一般の人も見たりするので,種々誤解される心配があるから,嫌なのだ」というお返事。そこで「先生が断れば,もっと不適当な人が代わりにえらばれるのではないでしょうか」と申し上げたところ,「実はテレビに出ると緊張,ドキドキして,あとで疲れるから嫌なのだ。ラジオでも一言も言い間違えないように,また時間をキッチリしなければならないので,疲れるから」と言われた。テレビに出るときドキドキする,とのお話を聞いて,私は,先生は気の弱い方なのだと思った。(註:おおやけの場での発言については,ことさら注意深い方だったからでは,と思う。)

最後に冲中先生という方を一言で言わせていただくと,稀にみる人格者で歳とともに大成された方であった。晩年の十年以上,ほとんど意識もなく病床に臥されていたことは本当に残念であった。

先生が虎の門病院長をされていた昭和四十年後半,埼玉県立がんセンター設立のための建設委員をしていただいた時,最終案に近い設計図を持ってご報告にうかがったところ,「君,事務局のスペースが一寸せまいのではないか」との予想だにしないご意見に驚いたが,さらに「事務局は大事になさいよ」との警告を賜った。先生の視野の広さ,ご経験の探さに恐れ入り,ただただ「再検討します」と答え,お言葉通り改善したことを思い出す。

先生がまだご病気とは無縁で極めてお元気の頃,学会を中座されてのご会葬からお帰りになった後,休憩時間に突然しみじみと「君ね,葬式というものは,本人は分からないのに周りの人が一生懸命やってくれるが,大勢の人に迷惑をかけることになる。予定以外だから仕事や休暇を無理に変更するだろう。僕が死んだら家の門の前に机を一つ置いて,帽子と聴診器を載せて,その時都合のつく人だけ通りすがりにちょっと頭を下げて行ってくれるだけでいいんだよ。家内にもよく言ってあるからね。」と述懐されたことがあった。

先生は長身でスマート,眼光炯炯として回診された。回診開始時間が一分と狂うことはなかった。入局当時の私は,畏怖の念のあまり病歴を読み上げる声も震えがちであった。このままで終われば,私にとって冲中先生は終生「ただ偉くて怖い先生」で済んだのかもしれないが,入局2年目の秋に思いもかけず先生と二人きりの九州旅行をすることになり,先生の愛すべき一面に触れることができて,先生への敬愛の念,特に愛の部分に大変化を来たした。・・・・大分での鉄門同窓会では先生の先輩の先生方が多くて,冲中先生はやや緊張気味,私がくそ度胸で「今度,先生は学術会議会員に立候補されます。宜しくご支持をお願いします」と挨拶すると隣席からヒョッコリ立ち上がられ深深と頭を下げられた。後で「あれで良かったかね。君」と尋ねられた。日南市での学術講演会では内科診療に眼底鏡は必須であるとのお話で,講演後,眼底鏡の購入法を尋ねる先生方が殺到し,冲中先生の「君が世話しなさい」との一言で,一時私は本郷の半田屋の無給店員となった。夕焼けの日南の海浜での地引き網懇親会で,「こんなノンビリした所で,おいしい酒を飲みながら,ゆっくりと診療をやると長生きできるだろうね」と述懐されたが,多忙で身をすり減らすような先生の,思わず漏らされた本心であったのだろうか。長い当時の九州旅行の汽車での道中,ボンヤリと車窓を見られる先生に当時から盛んになった週刊誌をお渡しするとムサボルように読みふけられ,医学以外には博学の私が,いろいろ話題をだすと「君はどうして,そんなにいろいろの事を知っているのか」と回診では聞くことのできないお言葉を賜った。この旅行から,冲中先生は私にとって偉い先生から好きな先生に変わった。純粋な真面目な責任感の強い先生は,医局員との馴れ合いにより教室の緊張感が緩むのをさけられて,我慢して怖い顔をしていられたのだと思う。

医学部三年の学生の時であった。今思うと若さの特権というべきか。私は,胸部エックス線撮影の講義を,冲中教授に直訴したのである。先生は,即座に専門の講師をお呼びになり,「クルズス」を命じられた。一学生の申し出にも耳を傾け,きちんと受け止めてくださる先生からどれ程,無言の教えと励ましを受けたか計り知れない。爾来師の光に導かれて今日に至ったことを,無上の誇りとも,幸せともおもっている。

最後に,プライベートなエピソードを述べて,先生を偲ぶことにしたい。確か入局三年目の冬,当時はロッカーが医局前の廊下に並んでいたが,田舎から送ってもらった新調のオーバーコートが盗難にあってしまった。中垣婦長さんも心配され,また小生も大変気に入っていたものだったので落胆したのを覚えている。ところが数日後,教授室に呼ばれていったところ,冲中先生自ら自宅から持ってこられたご自分の背広一式を風呂敷包みから取り出され,「古いものだし,君の体型に合わないかもしれないが,身につけてくれ」と言われた。昨日のことのように思い出され,果たして自分が教室員に対して,このような細やかな配慮ができるものかと思うと恥ずかしい気持ちで一杯になる。
父上の開業をみておられたせいか,若く傲慢な我々をこう諭されました。開業医の中には,君たちより遙かに臨床の実力があり,人物としても優れた方々がいるよ,と,きちっと対応しないとならないと言われました。「君,喧嘩してはだめだよ。人間いつ何時世話にならないとも限らないからね」と諭されたこともありました。どの言葉を思い出しても,真面目に生きておられる先生の姿と同時に,苦労の中で培われた温かい人間性を感じます。冲中先生を見ていると,明晰な頭脳と強健な体と,優れた人間性の持ち主だけが大きな仕事をされるのだという気になります。

(教授選考への)推薦にあたっては,フェアに対処し,決して根回しなどしない,もし,相手の選に洩れるようなことがあったとしたら,それは能力をうたがわれたというよりは,人柄が及ばなかったものと思え」ともいわれました。
学生時代,冲中先生の臨床講義は私を魅了した。肝脳疾患,重症筋無力症,脱髄疾患など神経疾患が多かったが,内容が新鮮であり,諄諄と説かれるお姿に,深い思索の流れを感じた。先生は講義の前夜は教授室に泊られることが多く,朝早くに患者を診察された。私自身が教授になって臨床講義を担当した時,先生を思い,師に及ばざることを痛感した。先生は体を張って,講義の準備に没頭されたのである。退官されるとき,「もうこれ以上はできない。明日からは銭形平次がゆっくり読める」ともらされたが,それは実感であろう。しかし,ご退官後も実際は,銭形平次どころではなかった。

研究の鬼として名を馳せられた先生であるが,臨床医学に対する先生の取り組みはさらに厳しかった。教授回診では眼底鏡を自ら覗かれるキメの細かい診察を行い,受け持ちのプレゼンテーションや対応に不備があると厳しく指導された。入院患者の病状が急変すると,速やかに教授に連絡するように習慣づけられていたが,時と所を問わず病床にはせつけられた。患者診察に対する教授としての責任感の強さに感銘をうけた。内科臨床における剖検の重要性を強調されたことは有名であるが,遺族から剖検の承諾をえられるか否かは,受け持ち医が普段から真剣に患者の診療にあたっているか否かにかかっているという堅い信念を持っておられた。

私も先生には回診で叱られたことがある。胃癌で便の潜血反応が出ないと言ったら,そんな筈はないと言われ,それからご機嫌をそこなわれ急に厳しくなられて私をはじめとして同室の友人は次々と皆そのとばっちりを受けた。あとで誰かが試薬を間違えて入れていたことが原因とわかったが,これだけ一生懸命やっているのに叱られるとはなさけなかった。後年,先生にそのことを言うと,「見込みがあるからと思って叱ったんだよ」と言われた。厳しい中にも温情が感じられ,いつまでも忘れられない言葉である。・・・もう一つ,私が教授に内定した時,先生から手紙をいただいた中に「これからは君自身でやれることは大したことはない,若い人の教育に全力をあげなさい」という言葉があった。

先生厳しいだけのオヤジではなかった。医局対抗野球六連覇の祝賀会の席で,「私だって一高の投手だったんだ。アンダースローの内角シュートが得意でね」と無邪気に自慢話をされたこともある。また,私が一酸化炭素中毒で一週間入院したことがあったが,先生は朝八時前にご出勤されるとその足で病室に来られ,或いは昼休みに,或いはお帰りの前にも「具合はどうだ」と声をかけて下さった。この時私は,このオヤジのためならどんなことでもやろうと密かに誓ったのであったが‥‥。(註:「二人のオヤジ」という題の文で,自分の父と先生の二人のことをオヤジの愛称で記している)。

「君たちはよりよい活躍の機会をあたえられるだけの実力を常に努力してつちかっておくように」とも説かれた。
冲中内科から,虎の門病院から,多くの人材を大学教授として送り出された。どんなに御自身が因っても承認された。これも容易なことでない。然し後任の人選には非常に努力された。この点も,冲中先生の許に,最後まで人材が集まった所以である。冲中先生は又,弟子の長所を発展さした。若干の欠点よりもむしろ能力のある点を尊重された。以前には年功序列が存在したのかもわからないが,三内では若手が抜擢され,怠ける人は遠慮なく無視された。現在では当然だが,その頃には珍らしい現象であった。
病院の管理職に就任する弟子に与えた言葉:「管理者は孤独感にたえられること」,「管理業務と同時に本来の医師としての専門の分野に精通し一流たること」

虎の門病院長になられてからの先生のご活躍は目を見張るものがあったが,中でも臨床医学の推進のための冲中記念成人病研究所の設立をめざして払われた努力は超人的で,先生のお供をして多くの企業に寄付をたのんで歩いたことは今でも鮮やかに思い出すことができる。
ある学会で発表しようと準備していたときです。私の態度に何かを感じられた先生が,「自分でした仕事だから,自分が一番良く知っているだろう。聴衆が100人いたとして,99人の人は十分わからないまま聞いているかもしれない。しかし必ず一人は君の仕事の本質を見抜く人がいて,その人が君の仕事を評価し,それが世論になるんだよ」と言われました。
「私は何も特別な人間ではない。ホームランを打ってやろうと思ったことはなく,少しずつ打つような心がけで来たのだ」
「自分が患者だったらかかりたいと思うような医者になりなさい」。

心情・モットーなど:

私にはこれという座右の銘はない。ただ,先人の残した言葉の中には,後から続く者にとってよい指標となるものが少なくないので,その都度それをメモしておいて,折にふれて読みかえしてみると,何かに叱咤される,あるいは励まされる力を与えてくれるのである2)。
最終講義を閉じるにあたり,私は先覚者の残された次の名言を学生たちへの贈りものとした。「書かれた医学は過去の医学であり,目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」。
「過去に感謝,現在を信頼,未来に希望をもつ」。
「与えられた仕事に責任を持つ」。
「動物実験のみが研究ではない。臨床家も科学に寄与することが出来る」。
「開業医の仕事は医学研究よりもより高次の,より神聖な義務である」。
「得意淡然,失意泰然」

「宗教なき科学は不具,科学なき宗教は盲目である」。
「よき師,よき家庭,よき友」。

「夢」。(註:ある弟子はこう書いている,「冲中先生が東大御退職の際に,我々に下された絵皿には"夢'と書かれてあった。頂いた当時は何か平易な意味の言葉のように思われたが,当時の先生と同じ年代になった今,人生にとって夢を持つことが如何に生き甲斐をあたえてくれるか,しみじみ感じている」)。

「初心忘るべからず」。

「臨床的事象を研究的な頭脳で観察する訓練」。

文献

1) 東京大学医学部第三内科同窓会 編:「我が師 冲中重雄先生」.東京,日本医事新報社,1994(非売品)
2) 冲中重雄先生を偲ぶ会 編:「沖中重雄一医の道」・東京,日本医事新報社,86,1992(非売品)

Copyright © 2024 冲中記念成人病研究所 All Rights Reserved.