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医学の進歩と医の倫理

医療と倫理-まだ若い後輩たちへ-

医学の進歩と医の倫理

第1話"恩師冲中重雄の実践した道"
東京大学名誉教授/冲中記念成人病研究所理事長 三輪 史朗

「最終講義」1)という書の中に,「内科臨床と剖検による批判」と題して1963年3月4日東大内科講堂で行われた,冲中重雄教授の最終講義の詳細が掲載されている1)。この本の62頁にある略歴をそのまま引用させていただき,先生が歩んだ道について話したい2)。なお,文中単に「先生」と記したところは,冲中重雄先生を意味している。

冲中 重雄(おきなか しげお)

医学者。医学博士。1902年(明治35),石川県生まれ。東京帝国大学医学部医学科卒業。1928年(昭和3)東京帝大副手となり,1931年欧米に留学。1943年同助教授,1946年教授となり,1963年までつとめる。

臨床家としての立場から,広く医学の基礎的な研究に従事してすぐれた業績を残し,とくに自律神経系に関する研究に対して,1961年日本学士院恩賜賞が贈られた。1963年,虎の門病院院長に就任,10年間つとめたのち,冲中記念成人病研究所理事長となる。また,日本神経学会の設立にも尽力した。1970年文化勲章,1975年勲一等瑞宝章。日本学士院会員。

著書に「内科書」(全3巻,編著)」「内科診断学」「人間とからだ」「医師の心」など。1992年(平成4)没。享年89歳。
*付記すれば,1963~68年内廷医事参与(宮内庁)として天皇ご一家の健康に奉仕。

先生の祖父は高知の国学者。陸軍軍人である父太田米丸の厳格なしつけのもとに育ち,東大医学部4年の時,親同士の話し合いがあって父のいとこ,姫路の医者冲中磐根の養子となり,その娘智(さとる)と結婚,冲中姓となった。土佐っぽの負けず嫌いで努力家の性格を父から譲りうけ,第一高等学校時代は寮生活で対人関係を養い教養を深めつつ学力・体力をつけ,大学医学部学生時代はひたすら書を読み実力をつけた。

卒業して内科学専攻を志し,3人の教授(稲田竜吉・島薗順次郎・呉 建)の中で,呉教授の若く,精力的に研究に打ち込む姿に惹かれて,呉内科の門を叩いた。呉教授は自律神経系の研究で国際的な仕事をした天才的な学者である。さっぱりしているが気性は激しく,先生に分厚いドイツ語の本を渡し「明日の朝までに翻訳して抄録してこい」というのを徹夜でやりとげる,という日々が続いた。学者として徹底的に鍛えられたのである。

3年たったある日,呉教授は先生を「この秋スイスで国際神経学会があり,出席し講演するが,一緒に来てもらえないか」と鞄持ちに誘った。これが,養父のあとを継ぎいずれ開業と考えていた先生の,一生の進路を決めることになった。3年間の働きをみて,呉教授は28歳の若さの先生の実力を見込んだのである。1931年春,船で横浜をたち,米国,ロンドン,ドイツ,スイス,フランスの各地を訪れて見聞を広め,秋深まる頃神戸港に戻った。呉教授の御伴だったので,ランドスタイナー,パブロフ,シェリントン,デール,ヒルといったノーベル賞受賞者をはじめとする数多くの著名な学者との出会いは鮮烈に若い先生の脳裏に焼きついた。

先生はその後,軍靴の音が高まり,風雲急を告げる情勢のなかひたすら研究室で研究を続けた。1940年,呉教授が58歳で心筋梗塞で急逝,後任は佐々寛之教授。1943年,先生が助教授となって間もなく,佐々教授から「上海に同仁会が医科大学を作り,東大医学部が支援することになった。学部長として行ってもらいたい。」と言われ,いよいよ教室に残れないと観念した。兎に角,行ってから考えようと,1943年8月,敵の潜水艦が出没する東支那海を渡って上海に着き,町に物資が豊富にあり,明らかに日本の負け戦の様相を呈するさまをみ,帰国を決意,運よく一高時代寮で同室だった商工省高官の友人と出会い,九死に一生を得て帰国した。大学に戻り,辞表を坂口康蔵病院長に提出したが受理されず,以前と同じ研究に戻った。1944年頃から医局貝は次々出征し,電気・ガス・水道も止まることがあり,研究も細々としかやれなくなった。夫人を疎開させ,助教授室に泊まりこんだ。1944年には,戸籍のある姫路第10師団から半ば強制的に誘いの声がかかった。1945年,志願を決心し,陸軍より海軍をと海軍医務局へ志願に行き,電報で「8月15日午前10時,戸塚(横浜)の海軍衛生学枚に入営すべし」との召集が来た。しかしわずか2時間の召集で終戦の詔勅を聞き,放免となった。

もしあの時陸軍に入っていたら,先生は姫路・岡山・広島地域の医師と広島に集められ,8月6日の運命の日,広島の練兵場で体操していて原爆被爆で全滅したに違いなかった。運命のめぐりあわせであった。1945年(終戦の年)の秋,医学部教授会は第二内科の助教授であった先生を,第三内科(青山胤通・稲田竜吉・坂口康蔵と引きつがれた内科)の教授とすることを決めた。教授会が先生の実力を評価したのである。他の内科教室の助教授を教授に迎えるのも,44歳の若さで内科教授になるのも異例であった。新しい教室は全員が明るく先生を迎え入れてくれ,教授生活が始まった。

先生は,教授となるにあたって三つの目標をたてた。一つは研究で,呉教授の頃からやってきた自律神経を中心とした研究を続けること,第二は教育で,講義には決して手を抜くことなく,全力投球すること,そして第三は臨床で,臨床能力を高めることであった。第三内科教室の先代青山・稲田・坂口の三教授とも臨床で世にきこえた方々なので,先生としては第三の点は荷が重かったが,研究者呉 建,臨床学者稲田竜吉の両先輩のいいところを受け継ぎ,活かすのが自分の使命であると割り切り,臨床能力を高める努力を強く心に決められたのであった。臨床能力を高めるには,亡くなった患者の病理解剖を可能な限り行い,学問的な追求をすることが最も重要だと先生は考えた。自分の行った診断と治療がマトを射たものであったかどうかは,内科では剖検で初めて確かめられる。病理解剖は率が低ければ意味がない。当時の50~60%だった剖検率を90%に高めようと努力された。

先生はこう決意したあとは,無我夢中で,寝食を忘れて目標に向かってまっしぐらに突き進んだ。二晩続きの徹夜,白衣のままの仮眠も珍しくはなかった。臨床講義の前夜は教授室に泊まって準備をした。病理解剖があれば,自宅から駆けつけて剖検に立ち会った。不幸にして死亡して遺族から病理解剖の許可がとれなかった時,先生は診療に熱心さが足りなかったのではないかと,きびしく受け持ちにその理由を追求された。重症患者の受け持ちは医局に泊まりこむのが通例であった。剖検率は2,3年のうちにぐんぐん高まった。

毎日朝7時には出勤,8時に重症・新入院の患者を回診された。週一回の総回診は午前9時ピタリに始め,眼底鏡・聴診器・ハンマーを使って一人一人の患者を全身にわたって丁寧に診察し,終わると受け持ちに色々質問,不勉強なところや手抜かりの点を指摘し,容赦はなかった。しかし良い着眼点や努力したことはそれを褒め,能力を引き出すことを忘れなかった。

ここに先生を追悼する教室員の文集から一文を載せる。

「深遠な学識と高潔で公平無私の凜呼たるお人柄で,強い倫理性とひたむきな責任感をもって,私共若い教室員に科学としての内科臨床に対する姿勢と考え方を,寛大な包容力と忍耐力で教導された。そして教室は戦後の世相の中にあって常に明るかった。顧みると当時の冲中内科は古きよき時代の,歩み入るものに喜びと夢を,去り行く人に幸せと誇りを与えてくれる心の故郷であった。リーダーとは所詮,人がついて行くこと,そして教育とは夫々の長所を生かして倦ましめぬことであったと今にして思う。」

先生は自らグループの中心となって自律神経系の研究を行い,1961年「自律神経系に関する研究」で学士院恩賜賞を受賞された。他の全教室員のそれぞれの研究については,月二度のペースで順番に研究室を回り,よく掌握し,助言された。これも並大抵には出来ない大変な努力であった。

もう一つ教室員の先生を偲ぶ文を引用する。「冲中教授の渾身の努力と,天性の才能と,慎重な運営により,三内は空前絶後ともいえる全盛期を謳歌した。医局の全員,医師以外のすべての職員も,一致団結して,冲中教授の良き指導の下に全力を傾けた。纏まりの必ずしも良くない東京大学医学部では,稀有に近い現象といえる。冲中教授は三内にこられて以来完全に三内の方になりきられた。恐るべき割り切りであった。できるようで,却って難しい事柄である。目標を設定し,まっしぐらに全能力を傾けて進む。これが冲中先生の真骨頂である。教授ご在職中,学部長,病院長に就任されなかった。恐らく多くの依頼があったと想像されるが,三内に全力を傾ける以外の仕事は排除された。人間どんなに万能の方でも・ある限界がある。御自分の仕事の範囲を適切に決定されたことが,三内が冲中教授在任中最後迄手堅く名実ともに大内科でありえた理由である。」

先生は17年という長期間の教授職を終えて1963年3月退官されたが,冒頭述べたように3月4日,有名な最終講義をされた1)。テーマは「内科臨床と剖検による批判」で,開講第324回目であった。ライフワークの自律神経系に関する研究を語らず,内科教授として真っ向から取り組んだ臨床の集大成として誤診率を取り上げ,「徹底的に診断しても,厳格な基準のもとでは,誤診はこんなに出る。医学とは難しいものなのだ」ということをいうために,敢えて苦い経験を学生に披瀝された。その真撃な学究的態度は感銘を呼んだ。17年間の剖検率は平均86.2%,内訳は入院患者総数8,512人,死亡1,044人,剖検数900。この900のうちから正確なデータのとれる750を対象に,厳密な誤診の判定基準を設けて分析した。第一は臓器の診断を間違ったもの,第二は臓器の診断は正しいが病変の種類の違っているもの,第三は診断と剖検所見は一致するが原発の臓器が違っているもので,これは非常に厳格な判定基準である。それで判定しての誤診率は14.2%であった1)-3)。これは広く大きな反響を呼んだ。ある記事の表現によれば,「われわれ患者はその率の高いのに驚き,一般の医師はその低いのに感動した」のだった。

最終講義を終わるにあたり,先生は先覚者の次の名言を学生への贈り物とされた。「書かれた医学は過去の医学であり,目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある。」

これまで,大学を定年退官される迄の先生の研究者,教育者,そして臨床家としての姿を書いた。次号にはこの後半を,大学を離れて虎の門病院という一般病院院長となって過ごし,大学といういわば象牙の塔にはなかった新たな経験を積まれ,その上でこれまでの全体験をもとに「医」を深く見つめなおし,1971年「医学の進歩と医の倫理」のスローガン,ヒポクラテスのレリーフをシンボルマークに,第18回日本医学会総会を会頭として立派に運営されたこと4),冲中記念成人病研究所4)を設立された先生の真意,また文化勲章を授与された先生のことを述べ,先生が身をもって実践し,我々に示された医の倫理について,考えてみたい。

文献

1) 冲中重雄:内科臨床と剖検による批判.「最終講義」.東京,実業之日本社,91-116,1997
2) 冲中重雄:私の履歴書.東京,日本経済新聞社,1971(非売品)
3) 冲中重雄:医師と患者.東京,東京大学出版会,3-44,1965
4) 冲中重雄:医師の心.東京,東京大学出版会,89.208-214,1978

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