第2話"続・恩師冲中重雄の実践した道"
東京大学名誉教授/冲中記念成人病研究所理事長 三輪 史朗
前回は,恩師冲中重雄先生の生い立ちから東京大学医学部内科学教授を退官される迄歩んだ道を記した。非力な記述ではあるが,先生がそのときそのときに強い負けじ魂を秘め全力で真正面から物事に取り組み,信念を曲げず,厳しく自己を律したお人柄を記した。その集大成が有名な終講義「内科臨床と剖検による批判」であった。この最終講義が,医者は無論のこと一般の人々にもさまざまな反応を呼び感銘を与えたのは,先生の生きかたの根底にある高い倫理性のためであったといえる。
今回は,はじめに東大退官後の先生の足跡を辿った後,先生の全体像に迫ってみたいと思う。前回同様,文中単に「先生」と記したところは,冲中重雄先生を意味している。
先生は東大に入学してから60歳まで,一度も東大から出ることがなかった。象牙の塔にこもったままだった。退官して東大を去り,先生は第二の人生を踏み出されたのであった1)。既に青写真作りの段階から参画し,定年前の1958年5月から顧問として名を連ねていた国家公務員共済組合連合会虎の門病院に,1963年6月院長として赴任された。その直前の5月,宮内庁から「内廷の医事に関する重要事項に参与すべし」という辞令をいただき,天皇ご一家のご健康の相談にあずかることになったし,同じ頃東大名誉教授,また翌年,日本学士院会員に推挙された。
先生は「病院長は想像していた以上に大変な役である。何よりも人の和に細かく気を配らなければならない。病院にはさまざまな職種の人々が従事している。こうしたあらゆる職種の人たちをわけへだてすることなく,意欲的に仕事に取り組んでもらうにはどう統括すればいいか,私には初めてのことだけに心をくだいた」1)と述懐しておられる。象牙の塔の時代には与えられた場での物事に一心不乱に努力された先生は,ご自分の内科学教室に守備範囲を絞り,東大病院院長や東大医学部長の職には就こうとされなかったが,大学から離れ,虎の門病院の院長となるや,すぐに与えられた病院長という職に真剣に取り組まれたのであった。
病院の職員食堂の昼食時には,医師・看護婦・検査技師・事務職員・ナースエイドなどあらゆる職種の人々が順にトレーをもって並び,その日のメニューの副食,みそ汁,主食を順番にとり,4人がけのテーブルの空いた席を探して座り,食事をとる。教授時代には一人だけで教授室でサンドイッチとコーヒーの昼食をしておられた先生は,一転して進んでその時同じテーブルについた人々と楽しそうに話しながら,食事をされた。先生に師事してきた私にとっては,近づきにくい威厳ある先生から好々爺への大きな変貌であった。努力されてのことだったに違いないが,先生の実にあざやかな転身ぶりであり,職員にとっては病院長を身近に感じ,親しみを感じる機会になった。これは病院全体に温かい空気を呼び込んだ。
大学から市中の病院に出た先生がすぐに感じたことの一つを,少し長いが引用させていただく。「私は,現在の日本の大学病院が今の機構で果たしつつある功績を認めるものであり,これなくしては,今の日本の医学のレベルは達せられなかったであろうと思う。しかし,今のままでよいかと言われると,今のままでは日本の医学はこれ以上には伸びない,つまり,世界一流の国に比して,いつまでも少し遅れたままであろうと思う。今の大学病院が日本の医学を背負っているということは,一面,日本では大学病院以外に,医学を研究するほんとうの場がないということでもある。外国の一流国のごとく,大学病院の他に,研究所や,その他の病院でも,良い研究ができるようにならなければ,日本の医学はこれ以上には伸びないと思う。大学病院では人材がひしめいているが,その反面おのおのの人は十分な活動ができない。これには機構の問題や,人の交流の問題,経済の問題など,いくつかの解きにくい課題が山積している。良い研究者が働き得る場所を多くし,良い臨床家が満足して診療に従事し得るようにしなければ,本当に一流国こはなり得ないと思う。具体的な解決策はなかなか見つかりにくいが,一番大切なことは,物の考え方ではないかと思う」2)と熱っぼく語っておられる。この文は病院長就任後一年たたずして書かれたものである。以前から常々考えておられた日本の医学のあり方について,市中の病院の状況をみて,すぐに見出した鋭くて大きな問題提起であったと思う。先生の第二の人生の出発は定年後の気楽な人生の出発ではなく,第一の人生のそれとなんら変わるところはなかった。多くの人が,そんなものかといってすませてしまうところかもしれないが,日本の医学の将来を憂える先生は,これをなんとか解決できないか,と考えをめぐらされたのであった。
これが,冲中記念成人病研究所を設立するという構想となって実を結んだのである。「臨床だけに関係する設備については一般病院においてもかなりよく準備されていますが,臨床には直接関係なくとも原因を解明するために絶対に必要な基礎的な物,技術,経済,余裕,場所,時間が足りないわけです」。「患者を診療している中で,今までにない症例にぶつかり疑問がでてきます。そこから研究テーマが生まれ,テーマを掘り下げてゆくことで医学が進歩し,良い診療の足場ができてゆくというのが私の信念でありました」。「私はこの課題を解決することの重要性を痛切に感じ,この欠陥を埋めるために各方面のご指導,ご支援をお願いして,ささやかながら成人病研究所を設立するに至った次第です」3)。
冲中記念成人病研究所は,病院からは独立した法人組織として,文部省から1973年(昭和48年)財団法人の認可を得るが,「私は米国で研究財団の提供する資金が,病院の高い水準を支えているのを観察して,1963年定年で東大教授を退職し虎の門病院院長に就任して以来,研究財団を構想すること10年でありました。かくして3年越しの奔走の結果,1973年5月に文部省から財団法人の設立が認可されたのです。この冲中記念成人病研究所は(たまたま1970年文化勲章を受賞した記念の意味もあって),高血圧,がん,アレルギー疾患,公害病などあらゆる成人病について研究活動を行っています3)」と述べておられるように,日本の一般病院には無かった医学研究費を虎の門病院でとれるようにして,病院のレベルアップを図られた。この意義はきわめて大きい。反面,先生をもってしても,これを行うには多大なご努力・労力を要したのだった。
虎の門病院は,開院当初からレジデント制度を取り入れ,レジデントは病院内のレジデントクオーターに寝泊まりして研修しており,臨床研修は実り多いものになっていた。冲中病院長は忙しい院長業務の間にも外来診療をされ,回診もなさり,病理・臨床カンファレンスに積極的に出席して発言され,若い医師に診療のあり方を身をもって教えられた。この病院では,看護婦は医師に従属するのでなく対等の立場に立ち,患者のケアに徹した。ここに臨床の場で生じた疑問を解くために研究費を得る道も開かれ,市中の病院の中では虎の門病院に対する一般人の評価はどんどん高くなっていったのだった。
先生は1971年開催の第18回日本医学会総会の総会長を務められた。先生はその碩学と真撃なお人柄から総会長に最もふさわしい方,余人をもって替えがたい方だった。総会の準備委員長を務めた中尾喜久東大後任教授によれば「リーダーシップをとっていくには二つのタイプがあるとその時思ったのです。一つは自分でどんどん決めて能率的にやっていく。もう一つのタイプというのは,経験や学識のある多くの方々の意見や考えを聞いて,そして自分の考えと対比しながら固めた上で決定するタイプがあることを教えられました。冲中先生は"皆,意見を出してください。決めるのは私の責任で決めますから"という態度でした」4)。先生は「医学の進歩と医の倫理」を標語に掲げられた。「私は一人の臨床医として最近特に感じていることとして,患者を診断し治療する場合,昔といっても戦前には,医師は患者に直接タッチして問診,視診,触診を行い,それに自己の知識,経験を加えて診断,治療の方針をたてた。この方法は検査法の高度に発達した近代医学から見れば,幼稚に見えるかもしれないが,このことは一面,医師は患者に密着してその病状を観察するという近代医学においてもゆるがせに出来ない基本的態度であり,患者を直接観察することから生まれる診断治療的材料には貴重なものがあるのである。それにもう一つ大切なことは,このような患者対医師の関係は,両者の間に相互理解の上にたった温かい人間的関係を作り出し,これは更に両者の信頼感を醸成していくという大切なことにつながるのである。結局,この医師対患者の関係は診療上に大きなプラスを与えることはいうまでもない。即ち,このことは患者にとって大変好ましいことになるのである」。「近代医学においては,発達した診断上の検査技術により,医師は諸検査から生まれる数字,曲線等に援助されて,短時間にしかも正確な診断が可能になり,患者を直接診なくても病状をある程度把握し得るに至った。しかし,一面,患者を直接診る機会を少なくし,また医師もそれで責任を果たし得たような満足感に慣れてくるのである。患者はこのバラメディカルな機構により血液,尿等をしばしばとられて調べられるのか,必ずしも説明をうけないで,ベルトコンベヤーで運ばれているような感じをもつようになる。患者のこの訴えは尤もなことであると思う。上述のような近代医学のすすめ方によって,ややもすると患者を人から物として見,扱う傾向が我々の頭にしらずしらず潜入してくるおそれを生ずるのである。現在の医療制度そのものが又,このような好ましくない傾向を育成していることも見のがし得ないところであろう。かかる近代的臨床の傾向は,医師と患者の人間関係をそこない,相互の信頼感を失わせる上に大きな役割を果たしているのではなかろうか。これは医師にとっても満足な医療を行う上で色々と支障を来たすものであり,このことは何よりも患者にとって大変不幸なことになるわけである」3)89-91.5)。先生が「医の倫理」を標語に取り上げたのは,近代医学の現状・将来をみすえた上での警鐘で,まことに時宜を得た考えだと感銘を深くさせられる。
さらに先生は,この医学会総会のシンボルマークとして,ヒポクラテスの像を取り上げられた3)92-96。ご承知のごとくヒポクラテスは紀元前460年,医師たるものの倫理について,きびしい教訓を提示し,その訓戒は2000年余を経た今日,隔世的進歩をとげた現在の医学の世界においても,重いカをもって,われわれに迫るものがある。米国の大学では,卒業式に際して,学位授与に先だって,卒業生一同に対し「ヒポクラテスの誓」を誓わせる。医学,医術に対する知識と技能とを証明するだけでなく,それに先だって医師の道徳的,人間的責任についての覚悟を誓わせるのである。「ヒポクラテスの誓」は「医の倫理」そのものである。
このような先生の方針のもとに開催された医学会総会は医学界を大きく引き締めるものとなり,盛会のうちに終わった。
先生は1970年6月,めまい,頭重感を覚え,8月にはさらに右難聴が出現して計3回の短期入院をされた。1973年,10年の在任期間の後70歳で虎の門病院長を辞し,同年(財)冲中記念成人病研究所理事長に就任された。1976年5月4日朝,右不全麻痺を生じ6日虎の門病院本院に入院,いったん軽快退院されたが,1978年2月3日再び右片麻痺を生じて本院入院,6月16日同分院にリハビリ目的で転院されたが,残念ながら軽快されず,1992年4月20日8時06分逝去された。享年89歳。病理解剖の所見では全身に動脈・細動脈硬化があり,多発性脳梗塞がみられた。
先生を偲ぶ座談会4)の中の先生の高弟の言葉をいくつか拾うと,「先生は,運命に従って従順にその道を一生懸命努力して歩んできたのだとしばしばおっしゃっていたけれども,与えられた運命のその時々に先生は非常に的確な判断をしていらっしゃるのです。その判断というか決断力に私はとてもかなわないと思います。その決断の後では,ひたすら全力投球する。そこがすごいなと思いました」。「ご挨拶に伺い,いろいろなことを教えて頂きましたが,最後に"僕はあと二年ばかり教授をしていたら,死んでいたかもしれない"とおっしゃいました。私は震えました。本当に精魂を傾けて堂々とおやりになった」。「今の話を聞いて思い出すのだけれども,あの医学会総会をやる時には本当に先生は真剣だったんですよ。それで,病気になられた原因が多少あったのではないか。1970年頃虎の門病院に何回か入院されています。それだけ先生は真剣に取り組んでおられたのだと思います」。
その時々に与えられた運命に従い,熟慮して非常に的確な判断をし,決まったらわき目もふらず一心不乱にまっすぐに全力投球した研究者・臨床家・医人冲中重雄先生。先生の生き方そのものが医の倫理の実践の道であり,身をもって周囲に示されたものは,あまりにも大きい。
以上,明治に生まれ,大正,昭和,平成の日本の波瀾の時代と大きく変動する時代を生きぬき,特に戦前,戦後の日本の医学,医学教育,医の在り方が作られ,実践され,問われる時代に,誠に潔癖で誠実な医学実践者として身をもって範をたれた先生の「医の倫理」を一弟子の立場から綴った次第です。
1) 冲中重雄:私の履歴書.東京,日本経済新聞社, 1971(非売品)
2) 冲中重雄:医師と患者.東京,東京大学出版会, 341,1971
3) 冲中重雄:医師の心.東京,東京大学出版会, 211,1978
4) 中尾喜久,小坂樹徳,豊倉康夫,他:座談会「冲中重雄先生を偲んで」.医事新報3560:43-55, 1992
5) 冲中重雄:医学の進歩と医の倫理.医事新報 2389:3-7,1970