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医学の進歩と医の倫理

医療と倫理-まだ若い後輩たちへ-

医学の進歩と医の倫理

第4話"冲中重雄先生について語り残したこと"
東京大学名誉教授/冲中記念成人病研究所理事長 三輪 史朗

恩師冲中重雄先生について綴ってきた「医療と倫理」は,この第4話で終わる。第1話,第2話では先生の実践した道について述べ,第3話では弟子・患者が語る先生像を述べた。ここではこれまでに触れ残したことを述べてみたい。先生が心血を注がれた自律神経の研究に最初に触れ,後半には一部私事に亘って恐縮ではあるが,私が先生の謦咳に接して学んだこと,感じたことも述べさせていただいた。文中単に「先生」と記したところは,冲中重雄先生を意味している。

先生の自律神経の研究:

先生は「私の履歴書」1)の中で自律神経の研究について,次のように述べておられる。「長い学問生活を通じて,私は自律神経に関する研究に打ち込んできた。内科学のなかでもこの分野に足を踏み込んだのは呉教授がその道の世界的権威であったことと,1931年(昭和6)の外遊で世界一流の神経学者に接したのがきっかけになっている」。この外遊こそ先生の師 呉先生が,入局してわずか3年しか経っていない28歳の若さの先生の実力を見込んで鞄持ちに誘った外遊で,呉先生と一緒に行ったからこそ一流の神経学者に会うことができ,その折の交流が,鮮烈に先生の脳裏に焼きつくことになったのだった。

ここで,先生の恩師 呉建教授について触れておく必要がある。話はさかのぼる。冲中先生は医学部を卒業し,若く精力的に研究に打ち込んでいる姿に強く惹かれて,呉建教授の内科学教室に入局するや,先生は呉先生の猛烈なしごきを受ける。そこで負けてなるものか,と持ち前の負けじ魂で頑張り,実験後分厚い本を渡されて「明日の朝までに翻訳して抄録してこい」とこともなげに言われると徹夜でやりとげる,という日が切れ目なく続いたのであった。呉先生は自律神経学者として,脊髄副交感神経の発見という偉業をなし,この業績により学士院賞を授けられ,さらにノーベル賞候補に上ったことも事実である。いずれにしろ呉先生という世界的な学者のもとで特訓を受け,呉先生に見込まれての外遊で見聞したことは先生のその後の生き方,特に研究の進路を決めたのだった。

先生の自律神経の研究が独白の方向に進んでいったのは恩師没後の頃からである[呉先生は1940年(昭和15)現役で亡くなられた]。「それまではひたすら師の命ぜられるままの毎日でいわば受け身の研究者であった。しかしその間の蓄積が,しらずしらずのうちに五体にしみ込み,のちの研究の土台となったことは想像に難くない」と述懐しておられる。

ところで,自律神経とは何かについてご存知でない方のために簡潔に解説しておきたい。自律神経は内臓 血管,皮膚などのいわゆる平滑筋といわれる筋肉の運動や,脳下垂体,副腎などの内分泌腺の機能に大事で,結局,消化・呼吸・排泄・循環などに働く神経である。自分の意識・意思の影響を受けることが殆どなく,死ぬまで働き続けるのでこの名がついた。自律神経はさらに交感神経と副交感神経の二系統からなり,お互いに拮抗的に働いて,うまい調節を保ち,微妙な調節をしている神経なのである。

呉教授は自律神経系の分類という偉業をたてられたが,その方法は神経の形や太さ,大きさ,髄鞘の有無などから把握する形態学的分類であり,世界的にもミューラー,シェリントン,ヘーリングらのような形態生理学者が大勢をしめていた時代であった。

呉先生の後をうけて,ひとり立ちして研究をすすめていくと,副交感神経の一方の代表者である迷走神経で師 呉先生の分類にあてはまらないものが出てきた。先生はそこで形態学的アプローチとは別の方法をとる工夫をされた。先生は力強く言われる,「先人と同じ方法で追試しても新しい知見が出てくるものではない」という師のことばを実行に移したのである。そのころレビー,デールらにより神経化学伝導説が唱えられてきたが,先生はこの学説をもとにして,神経細胞・神経線維を化学的に染色することによって形態と機能を同時に観察する組織化学的アプローチを取り入れ,これを先生の研究方法の大きな武器にされたのであった。

この方法を用いて,末梢の自律神経では,従来考えられていたように交感神経,副交感神経のどちらか一方が存在するのではなく,どの部分にもいろいろな割合で両者が混合し,優性な方がおもてだった働きをしていることを証明することができた。さらに,心臓の冠動脈は今までは一般の血管とは逆に交感神経は拡張,副交感神経は収縮に働くという見解が一般的だったが,「冠動脈においても一般の血管と同じで交感神経は収縮,副交感神経は拡張に働く。しかし実際に逆の神経支配と見えるのは冠動脈刺激に際して心臓や全身の血行動態,心筋代謝の変動による二次的な影響におおわれているためである」という結論に達したのであった。

またその頃,学問の進歩として内分泌・代謝の研究が盛んになりつつあった。そこで先生が取り入れたもう一つの方法は,生体の現象を神経一本槍あるいはホルモン・体液中心で分析するのでなく,内分泌腺,さまざまな臓器の調節・支配の究明に,神経と内分泌・代謝の両者の研究をともに取り入れた神経・化学的方法を取り入れた点である。この立場にたって,膵臓インシュリンの分泌,甲状腺ホルモン,副腎髄質・皮質の支配のほか,脳の中枢の視床下部,辺縁系による調節機構を総合的に研究していかれた。すなわち呉先生の時代は形態学と電気生理学を中心に自律神経系の研究をされたが,冲中先生はさらに機能面からのアプローチすなわち神経体液性調節,神経化学伝導説に基づく組織化学的なアプローチによって発展・集大成され,その業績が学士院賞恩賜賞受賞となったのである。

先生はご自分で回顧しておられる。「長年の研究を振り返ってみると,それまでの定説を訂正,補足したり,また私自身のたてた仮説,推論を確認,修正しえたことも少なくない。一方,新しい知見の展開によって未知の世界は広がり,研究の道はさらに長く,遠いことを痛感する。1961年(昭和36)には「自律神経系に関する研究」で学士院恩賜貧の受賞の栄に浴したが,それをマラソンの折り返し点と見たてて,その後も精一杯走り続けている」。

「冲中重雄企画展」について:

1998年(平成10)7月1日から翌年2月末までの8カ月間,先生生誕の地金沢市の金沢市立ふるさと偉人館(市の中心に位置する:先生生誕の地もかなり近い由)で,冲中重雄企画展が開催された。常設展ではないので,これから見に行くということはできないのが残念だが,偉人館の方々の並々ならぬ努力が実って,大変立派なものとなったので,概要を記してみたい。なお企画展は副題を「日本神経内科学会の創始者」としてあった。

ふるさと偉人館の方々の努力で,先生のご養子からご自宅にある数々のご遺品を貸していただけたし,また私どもの勤める冲中記念成人病研究所にあるいくつかのご遺品も展示できた。企画展の案内書には「趣旨」について次のように書かれている。

「この度自律神経系・内分泌・脳卒中をはじめ内科学の幅広い分野の研究で多くの業績を残し,日本に神経内科学を創始し,学士院賞・文化勲章・勲一等瑞宝章を受けた冲中重雄博士の企画展を開催します。

博士は一貫して自律神経系を中心に研究し,それまでの精神神経学会を二分することを主張,日本臨床神経学会(現,日本神経学会)を設立,世界に遅れがちだった神経学のレベル向上に力を尽くしました。他面,自他共に厳しい教育者でもあり「患者の中に教科書がある」を信条として,患者診療を重視,優秀な臨床家を数多く育てました。

東京大学在職35年間,研究・教育・臨床に全力を投入し,"冲中内科"の名は海外にも知れわたり,また博士の研究は国内はもとより,国際的にも高い評価を受けました。

東京大学退官後は虎の門病院長・同特別顧問・宮内庁内廷医事参与などを務め,回復期・慢性疾患治療センター(虎の門病院分院)・冲中記念成人病研究所などを設立,職務の医学(特に内科)の軌道を修正し,方向づけた内科学の泰斗です。

この度の企画展では,「内科の泉」と形容された冲中重雄博士の医学に関する姿勢・お人柄を展示したいと思います」

十分のスペースをさいて系図・書簡・出版物・遺墨・遺品・写真・パネル・最終講義の録音テープなどが置かれ,館員の女性の熱心な説明は,郷里の一人として先生の全体像を大変よく把握した情熱のこもったもので,私の心に強く響いた。私も「冲中重雄先生から学んだこと」という話をさせていただき,生誕の地で先生を偲ぶことができた。展示期間中に金沢市で医学の学会がいくつか催され,冲中先生の企画展をみて感銘をうけた旨のお手紙をくださった先生方がある。

先生の葬儀:

1992年(平成4)4月20日虎の門病院分院でご逝去になった先生の葬儀は,先生の生前のご希望により冲中家の密葬として大塚の護国寺桂昌殿でしめやかに行われた。簡素でありながら厳粛であった。「冲中先生を偲んで」2)という門弟の座談会を読むと,「ご遺言によって香典,供花を一切ご辞退になり,両陛下,皇族,日本学士院会員のお花だけで,後ろに菊の花が簡素に並べられ,先生ご愛用の"帽子と聴診器と鞄"が目立たず置かれているのをみて,心打たれました。弔辞,弔電のご披露もなく,ただ冲中先生のかつてのNHK放送の録音テープ,終戦前後の思い出を語られた"老軍医の一日応召"が静かに流れておりました。ただ無性に淋しいという一語に尽きました」。「先生のご葬儀も,密葬の後,本葬という形になろうかとも思っていたのですが.ご遺族を代表して秀夫さんは,生前の父の遺言で,冲中家の葬式に致しますとのことでした」。「ご戒名を拝見すると,"慈教院釈重雄" とありました。いわゆる俗名が入るのは非常に珍しいと思うのですが,とてもいいなと思いました。これは直接先生から承ったことがあるのですが,"重雄"というのは落ちついた名前で男の子が重なったという意味でつけられたそうですが」。「私は,お写真で非常に先生を思い出させられましたね。白衣をきたままで,そして何かを押し通される時の厳しさも感じとれたのですが,何かひょっと冗談を話しかけてくるかという感じもいたしました。先生の性格の非常に厳しい面と,非常に思いやりの深い面とが表現されていたように思って,あの写真に先生の全ての感じを受けました」。

先生のお墓:

東京の郊外,JR中央線八王子駅北口から車に乗ると,10分ほどで大善寺に着く。その基地は丘になっているが,入り口からまっすぐ丘をあがる広い道をのぼると,その丘をあがりきった右手の日のよくあたる場所に先生のお墓は建っている。晴れの日には,先生のお茎は太陽のひかりを一杯に受けてまぶしいほどである。

思い出:

私が冲中内科教室へ入局して2年半ほど過ぎた頃,父の友人蝋山政道先生夫人を介して今の家内との結婚話があった。その頃は入院患者を受け持って多忙で,結婚はまだ先のことと思っていた。だが,そのすぐあとに冲中内科の同級の藤井潤君から「冲中先生が君を呼んでおられるよ」とのこと。教授室に伺うと「結婚の意志はないか」といってすすめられた相手先は驚いたことに今の家内であった。まったく同じ相手がまったく異なった道を介して重なったのは,何か偶然とはいえない縁と感じ,蝋山家で見合いをし,冲中家で結納式を行い,蝋山政道先生ご夫妻の媒酌で結婚式をあげたのだった。

蝋山先生のほうは,嫁洲子さんと家内と勤め先が同じ国際文化会館だった縁であり,一方冲中先生とは,師 呉建の孫という縁である。ちいさい時に母を亡くした家内は祖父母のもとに引き取られて育ち,その後,学校の帰りなどに時々冲中家に泊まったりしていたのであった。縁とは不思議なものである。

入局後1年経って研究室への配属について教授室に呼ばれたときのことを今でもよく覚えている。中学時代長野県戸隠村で毎夏昆虫採集をしてすごし,インターンや入局後1年の間は血液細胞の標本を顕微鏡でみることの好きだった私は,血夜学を学びたい,と申し出た。さらに私は,「良い臨床家になりたいです」と申しあげた。先生は「良い臨床家になるには良い研究者でなければならないよ」といわれた。いま先生のこの言葉を思いおこすとき,感慨深いものがある。

私が山口大学に在職の折,先生にお出でいただいた。東京から飛行機で山口空港に降り立たれた時の感想,「岡山・広島あたり上から見ると(伐採されて)禿が目立つようになった。禿はいかん。禿はいかん」。これには何とも返事にこまった。近頃環境破壊,森林保護が強く論ぜられるようになったが,「禿はいかん」という言葉は自然環境保護を早い時期に訴えた名言として私の心を打つのである。

萩の松下村塾では興味を持たれ,床柱に記された言葉をメモしたりしておられたが,先生は吉田松陰が養子であると知って,ことのほか喜ばれ,「友ちゃん,養子は偉くなるものなんだよ」と家内に冗談を言われた。

津和野は山に囲まれた鯉の多い景勝の地。お稲荷さんは日本の五大稲荷の一つとして名高いのだが,「僕は金には縁がない」とて全く関心をしめされなかった。森鴎外と西周の生家を訪ねる。二人は親戚,西周は初代学士院院長。「森鴎外のほうが有名だが,学者としては偉大な人だった」と,西周のほうにより強い関心を示された。ちょこちょこと短いメモをとられるメモ魔の先生のお姿が印象に残った。

文献

1) 冲中重雄:私の履歴書.東京,日本経済新聞社 1971(非売品)
2) 中尾喜久,小坂樹徳,豊倉康夫,他:座談会「冲中重雄先生を偲んで」.医事新報3560:43-55, 1992

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