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私の履歴書

1. 軍人を父に出生 ― 図らずも研究者のに

人間の運命は、どこでどう変わるかわからないものだ、とつくづく思う。私は幼くして軍人になるつもりであった。そういう境遇におかれていたのである。ところがある瞬間から一転、医師になるよう運命づけられた。しかし研究者として身を立てようとはみじんも考えず、ただ、村の医者として一生を送るはずであった。医局にはいり研究に骨身を削る日々にあっても、長くそう思っていたのである。

ところが図らずも研究者として一生を送ることになり、のちには東大医学部教授にまで推されるという栄誉に浴したわけである。その間、九死に一生を得た命の分かれ目もあった。東大教授としての力量を問われる大事件に巻き込まれたこともある。次々と思いがけない運命の波が私をもてあそび、方向転換をしい、成長させていった。「人間の運命とは、一寸先はヤミであり、どこでどうころぶかわからない」という人生観を持つようになったゆえんである。

私は恵まれた星の下に生まれたわけではない。早くして父母をなくし、養子に行っている。前半は、逆境とは思わないが、決してしあわせな人生ではなかった。並みはずれてすぐれた頭脳の持ち主というわけでもない。私以上の能力の持ち主は、いくらでもおられるはずである。

にもかかわらず、他人には順風満帆の人生と映るのは、置かれた環境が、私にとってつねに幸運の方向に転回していったからにほかならない。運命のいたずらで、もし、他の方向へ押しやられていたら、今日曲がりなりにも医学界で評されるほどの人間には、間違いなくなりえなかったことであろう。

与えられた環境が私に適していたことと同時に、一方ではその中で、まじめに精一杯の努力を重ねてきた。これが私の進むべき道だと心に決めて心の手綱をゆるめることは全くなかったと言っていい。苦しみに耐え、勝ち抜くがんばりの精神が、私のささえであり、唯一のとりえでもある。

まれに見る碩学である恩師呉建先生は、ことあるごとにこうおっしゃった-研究には困難な壁にぶつかることは避けられない。テーマが前人未踏のものであり、雄大なものであればあるほど、壁は厚く、けわしい。しかし、この壁はいかに大きな岩石であっても、氷の岩である。研究者が熱意をもって、辛抱強くぶつかっていけば、いつかは岩は溶け、新しい道が開けるものである-と。呉先生はさらに「研究の進め方は、まず大きな道を切り開くことである。方向が正しければ、あとの人が必ず舗装し、立派なものにしてくれる」と教えられた。私は呉先生のこの箴言を心に秘め、実行してきたつもりである。

研究者として、また教授としてたどり来た道を顧みると、野球の七回目くらいに大ホームランをかっとばして一気に勝負をつけたというはなばなしいものは何もない。むしろ、毎回着実に得点を重ねてきたといったものである。しかし、毎回得点を重ねることは大向こうをうならせるような派手さはないが、一朝一夕に出来るものではない。私を導いて下さった恩師の方々、すぐれた研究仲間、後輩(彼らはいずれ劣らぬ四番バッターぞろいである)のお陰にほかならない。

私は医学という狭い分野だけに生きてきた人間である。職業柄、人の死には数えきれないくらい直面しており、人生とははかないものという感慨によく陥る。しかし、だからといって一回きりの人生を無為にすごしていいとは思えない。否、一回きりの人生だからこそ、精一杯の努力が必要なのではなかろうか。

私は「夢」という字が好きである。38年3月、東大退官に際して、記念品に額皿を作り、世話になった教室の方々に贈った。これには中村研一画伯にバラの絵をあしらってもらい、「夢」の一字を書いた。どんな環境におかれても、一生、何か夢を持ちながら生きていくことが、その日その日を有意義に贈る糧であると信ずるからである。

私は第一次桂内閣が日英同盟を結んだ明治35年、金沢市で太田米丸の三男として生まれた。といっても金沢には三週間ほどしかいず、すぐに島根県の浜田に移った。その後も、まだもの心つかぬ間に姫路、広島とほぼ二年おきに移り、記憶によみがえってくるのはその後さらに岡山市に移ってからである。ここは比較的長く、3、4年いたようである。

生まれた時は「この子は赤ん坊じゃなく、白ん坊だ」と言われたほど、ひ弱な月足らずの子だったらしい。今でこそ父から受け継いだがっしりした体格だが、中学校ごろまでは、比較的病弱で、時々学校を一日、二日と休んだようだ。

ところで、ほとんど出生と同時にあちらこちらと渡り鳥のように移ったのは、父が陸軍軍人だったからである。父は明治10年の西南戦争の時にも戦いに加わったそうだし、日清戦争の時は中尉になっていたという。私が生まれた時はおそらく佐官だっただろうが、中佐だったか大佐になっていたかは、はっきりしない。ほどなく起きた日露戦争の時には大佐になっていたようである。この戦争の時、小銃弾が胸にあたったが運よくちょうど大きな懐中時計で止まり助かったそうだ。器械をめちゃくちゃにこわし、タマがそこにとどまっている時計を父は自慢そうに子供たちに見せてくれたことをよく覚えている。

私が「重雄」という名前をちょうだいしたのは、女の子が多いなかにあって、続いて男が生まれたので、男が重なったということによる。一見イージーな名付けのようだが、親にしてみれば男が二人続いたのは大きな喜びだったに違いない。そういうふうに思いをめぐらせば、親の喜びが素直に出ている名前ではある。

ここで簡単に兄弟姉妹のことに触れておこう。私の上には女4人、男2人の兄姉がおり、下には男一人女3人の弟妹がいる。上から女・女・男・女・女・男・男・女・女・女・男と11人というにぎやかさだ。ただし、母親は上3人、中5人、下3人それぞれ違っており、私は米丸の二番目の妻の子である。長男太田米雄は大東亜戦争後なくなったが、父の跡を継ぎ陸軍中将まで進んだ。現在生きているのは私のすぐ上の兄から下であり、末っ子の弟は東大工学部を卒業後現在、日本無線の重役になっている。

あとで詳しく述べるように、私が養子に行き、冲中姓になったのと同様に二番目の兄は母方の家に養子に行き、芳田姓となった。今も名古屋に健在である。さらに末の弟も父の妹の家に養子に行き、西村姓となった。

妹たちもいまでは60歳すぎのおばあさんになり、よく孫の手を引いて遊びに来る。その点、男の兄弟はお互いに忙しいこともあって、めったに会う機会がない。冠婚葬祭の時なんかに顔を合わせても、ちょっと近況のことをたずね合ったりするくらいなもので、実にあっさりしている。

私の実母勝子は広島にいるころなくなったそうである。私が5歳ごろのことだから面影を追っても浮かんでこない。が、「あれが母親なのかなあ」というおぼろげなものはわずかに残っている。

さて、岡山では弓之町の官舎に住んでいた。弓之町は今でも市の中心街である。父は当時大佐で連隊区司令官(?)をしており、いちばん羽振りのいい時期であった。官舎も大佐の住まいらしく立派なものであった。官舎から50メートルほど離れたところにカトリック教会があり、そこの幼稚園に通った記憶がある。先年、岡山で講演した際、かつての住まいらしきところを歩いてみたが、何ひとつ見覚えのあるものはない。が、教会のところへ来た時、ふと「ああ、ここには青い目の子供がおり、やぎが飼われていたなあ」という記憶がよみがえってきた。幼稚園の名は、たしか妹偕幼稚園といったと思うが、定かではない。しかしいまでも「まいかいのよい生徒、雨が降っても風がふいても休まず通う、まいかいのよい生徒・・・・」という園歌は覚えている。60年以上も昔、脳裏に焼きついた像は、今も寸分違わず再現出来るのである。

父が一兵卒から大佐までなった、たたき上げの軍人ということ以外、私は長い間、家系がどうであるかを知るよしもなかった。また知りたいとも思わなかった。東大の教授、先輩のなかには、由緒ある家系、門閥の方々がキラ星のごとく大勢おられたそうだ。そういう人たちを、うらやましく思わなかったわけではないが、先々いなかに帰って開業医になろうと思っていた私にとってはさしたる関心事ではなかった。とにかくまじめに、勉強ただ一筋に没頭していたわけである。

ところが、そんなある日、はからずも私の祖父に当たる人が、その道では一応名の知れた国学者太田満穂であることがわかった。昭和9年、東大講師になって2年目の時のことである。その年の6月「土佐史談」という土佐の歴史、地理を研究発表する季刊雑誌に「君のことが出ているよ」と教わった。だれが教えてくれたか、残念ながら覚えていない。が、とりあえずその季刊誌を手に入れてみると、なるほど言われた通りだ。

それによると、太田家は、代々土佐山内家に仕えた馬回り(大将のそばに付き添い、護衛に当たった騎馬の武士)の家柄で、知行130石の禄を受けていた。曾祖父蔵馬は太田氏九代に当たり長男に満穂、次男に勇吉と、二人の子供がいた。この満穂が養子先の祖父である。勇吉は本当の祖父、つまり米丸の父であったようだ。

太田満穂は文政12年(1829年)、高知城下片町に生まれた。半生は藩士として文武両道に通じ、ことに明治初期までの活躍はめざましいものがある。慶応4年(明治元年)正月には伊予松山の征伐の指揮をとっている。この征伐は結局、城主松平伊子守定昭が城を出て降伏したので血を見ることなく任務を果たした。藩主はこの功績を高く評価し、賞として末広の短刀を贈り労をねぎらった。さらに8月には庄内鶴岡城下まで出征し、藩軍の状況を視察、山内容堂老公に奥羽平定を言上している。藩にあっては非常に信頼が高く、厚遇もされていたようである。壮年時代江戸詰めの機会をとらえて千葉周作に剣道を学び、坂本竜馬とも手合わせをしたという。なんでも竜馬の剣道は、技術はともかく、竹刀で打たれると非常に痛かったという。

しかし大政奉還(慶応3年)に次ぐ版籍奉還、廃藩置県と、世の中が急角度に転回した時、武士階級が一様に転落していった例のもれず、満穂の武士としての栄光の時代は終わった。満穂は忠君奉公への精神では、何人にも劣らないと自負していただけに、もし郷士以下の階級であったなら、恐らく勤王の士として大活躍したことは想像にかたくない。だが、馬回り役として重い禄を受けていたことがそうした道をとらせなかった。

これで一巻の終わりとならなかったところが満穂の偉いところである。剣を捨てた満穂は高知市外の朝倉神社の神官として静かに神に仕えると同時に国学に親しんだ。笏をとる一方で、いつのころからかはわからないが、鹿持雅澄に師事したのである。雅澄は賀茂真淵や本居宣長のように多くの門下生はとらず、一生土佐にこもって国学の勉強をした立派な人物である。満穂は雅澄の学統を受け継ぎ、明治10年ごろには「万葉集講録」48冊を著わしている。万葉集の歌一首一首に注釈をつけ、自分の考えを述べたものである。「土佐史談」に載っている満穂自筆の写真版をみると、一字一画実にていねいに書いてあり、律儀な人柄をしのばせる。この「万葉集講録」は、のちに京都、北野神社に献納された。

満穂は明治22年、61歳で世を去った。記録では市外潮江山に葬ったとある。そして、子孫の冲中重雄は東大医科に奉職中であり、将来を嘱望されていると出ている。私に「君のことが・・・・・」と教えてくれた人は、この一行を見のがさなかったわけである。

養父磐根は、老いてから潮江山を訪れ、荒れ放題になっていた墓地の手入れをしたそうだが、私は多忙にかまけて、まだ訪れていない。どうなっていることやら、機会をみつけて、ぜひ一度お参りし、霊をなぐさめたいと思っている。

満穂の負けじ魂といい、父のがんばりといい、どうやら〝土佐っぽ〟共通の意地であるらしい。私も、今でこそだいぶ丸くなったと評されるが、相当意地っぱりで負けん気が強いところがあるのは、〝土佐っぽ〟の血が流れているせいであろう。

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