Warning: include(../ga.php) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/0/main.jp-18755388ab233564/web/pub/history/book1/index03.php on line 73

Warning: include(../ga.php) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/0/main.jp-18755388ab233564/web/pub/history/book1/index03.php on line 73

Warning: include() [function.include]: Failed opening '../ga.php' for inclusion (include_path='.:/usr/local/php/5.3/lib/php') in /home/users/0/main.jp-18755388ab233564/web/pub/history/book1/index03.php on line 73

私の履歴書

3. 一高から東大へ ― 学力も体力も鍛える

中学の後半から、ひょろ長くなってきたものの、一高に進む時、学術の方も心配ではあったが「体格で落とされるのではないか」というのがいちばんの気がかりであった。しかし案ずるほどのこともなく、無事一高の理科乙類に入学、朶寮2番という部屋に入れられた。

理科乙(第1外国語がドイツ語)には2組あり、入学時の成績で1組に1、3、5・・・番、2組に2、4、6・・・番と振り分けられる。席もうしろの方から成績順に並ぶので、一目瞭然である。入学した時はたしか1組の1番が有名な動物学者丘浅次郎氏の子息丘英通君(現在東京教育大学名誉教授)であった。彼は語学の天才で、一高当時、数カ国語をこなし、イタリア語の新聞まで読んでいた。

2組の1番は梅田魁君(北大教授から現在は東京理科大学教授)。2番が私、3番が藤田恒太郎君だと記憶している。藤田君は東大医学部の解剖学教授になったが、10年近く前、ちょうど定年の日の3月31日に胃がんでなくなった。

席次のことを言えば、私はつねに後ろの方にすわっていたわけではない。悪い時は20番以下になったこともあるが、比較的順調な方であった。それにしてもナンバースクールの先生方は、みんな偉い人ばかりであった。今の一般の大学の教授より、学力・人物ともすぐれていた先生も少なくなかったように思う。

ドイツ語には岩元禎というおっかない先生がいた。シラーの詩などを教科書に使い、どしどし40点以下をつける。一高では40点以下が1課目でもあると落第である。しかし、当時は落第がそう不名誉なことではなく、むしろ落とされるのを楽しむ雰囲気さえあった。岩元先生の思い出は多くの一高卒業生が今も語りつづけている。そのほか名物教授も多士済々で、ドイツ語のマル通(丸山通一)、スガトラ(菅虎雄)、植物学のデコシャン(石谷光春、おでこが光っていた)、物理のイシデン(石谷伝一郎)といった先生方は、今もなつかしく思い出す。

寮生活の思い出は尽きない。一年の時は文科系も理科系もごちゃまぜで、10人くらいが一部屋に詰め込まれた。今思うと、よくあんな狭く、きたないところで平気でいられたものだ、しかし、ふしぎにノミやシラミに悩まされた記憶はない。ふとんは万年床。あげようものなら翌日は敷くスペースがなくなってしまうからである。〝寮雨〟といって真夜中や明け方に二階から長々放尿する。うまい具合いに窓も低く造ってあった。今から考えると不潔なことをしたものだと思う。

私は今もそうだが,朝が早い。6時ごろ起き出し、木立ちの間を散歩する。そのついでに一階の勉強部屋に如雨露で水をまき、掃除するのが日課だった。早く起きる代わりに床につくのも早い。たいてい12時までには寝ていた。夜ふかし型の同僚に寝言を聞かれ、何度かひやかされたものである。試験前ともなると、みんなまくら元にろうそくを立てて〝ろう勉〟をしたが、私はあまりしなかった。日ごろからよく図書館に出入りしていたと証言した友人もいる   が、そうはっきりした記憶もない。

育ち盛りだから夜は腹が減る。近くのおでん屋「呑喜」、コーヒー店「青木堂」、おしるこ屋「梅月」、カレーライス店「ホワイトハウス」などへは、よく、隊を組んで繰り込んだものである。門限に遅れ、へいを乗り越えて寮に帰りつくこともしょっちゅうであった。ここもうまい具合に、へいは低く造ってあった。みんなよく勉強もしたが、一騎当千のサムライぞろいでもあった。

そのころ野球をおぼえ、熱中したことが、からだづくりに大いに力があったと信じている。撃剣、柔道などは不得手なのに、野球だけは不思議にうまかった。寮の対抗試合ではピッチャーとして大活躍したことは知る人ぞ知る。一高の時は糸まり、大学にはいってからはスポンジボールだった。アンダースローで投げるから、バッターの手元でぐんとホップする。冲中のひねくれ球として、鳴らしたものである。

一高卒業からことしでちょうど50年、紅顔の美少年も、いまや各界の重鎮となった。苦しかった時代に助けてくれたのも、この時代の仲間である。一方、不幸にして世を去った友も少なくない。国鉄総裁の加賀山之雄君は同室で特にウマが合った。物静かな文学青年の堀辰雄君、豪放らい落ながらマネージメントにすぐれていたテロレン岸道三君(元日本道路公団総裁)、文化人類学の大御所だった石田英一郎君。いずれも惜しい人材である。私の近辺にもようやく至近弾が落ちてきた感が深い。

一高時代には基礎的な学力が身についたことは言うまでもない。それ以上に体力がついたことと対人関係が培養されたことは、その後の人生航路にどれほど役立ったことか。

体力がついたのは野球好きだったからだが、私のアンダースロー投法が、中年以後から始めたゴルフにも役立っているのは愉快だ。ゴルフのスイングが、力の入れ具合いと言い、腰の回転と言い、アンダースローそのままである。おかげで、はじめのうちはゴルフはたいして練習したわけでもないのに、結構人並みのスコアで回れた。しかしここ数年間ほとんどコースに出なくなったのと、年齢のためか、まったくだめになってしまった。ついでながら水泳も一高時代に、たまたま松沢一鶴氏(昭和40年死去)に一高水の泳寮(房総の鏡ヶ浦)でクロールをならったおかげで、若いときはクロールでよく泳いだものである。しかしこれも今は全く泳ぐ機会がない。

寮はいずれ劣らぬ優秀な人物の集まりだから、人間形成の場としては申し分ない。性質は十人十色、なかにはエキセントリックな人もいたが、もまれているうちに対人関係はどうあるべきかを身につけた。口角沫をとばしての議論でも、決してけんかはしない。そのためには人をさげすんだり、悪く言ったり、揚げ足をとることは慎むべきことをさとった。けんかはおよそ実り少ないものである。

今の中学生、高校生はかわいそうだとつくづく思う。目先の試験だけを目標に、友だちさえも敵とみる。その点、時代の違いもあろうが、ゆとりがあり、進んで助け合う寮制度という人間教育の場は、高く評価していいと思う。

さて、関東大震災にあったのは3年の時。本格的に大学の受験勉強の取り組もうというわけで寮を引き揚げ、生麦の家から通い始めた直後である。9月1日朝、いったん学校に顔を出し、生麦の家へ帰って間もなく、正午ごろグラツときた。

死者10万、負傷者10万、行方不明4万数千人と、悲惨をきわめた。横浜市内まで様子を見に行ったが、川原にはやけどで飛び込んだ人が死屍累々としており、道路には一晩、二晩と野宿する人があふれていた。しかし生麦の家は小壊にとどまり、家族全員無事だったのは、不幸中のさいわいであった。

学校も相当こわれ、授業がない。これには弱った。大学進学が迫り、いざはち巻きをしめて受験勉強にとりかかろうというときにブランクが出来るのは、なんといっても痛い。結局、まともに授業が出来るようになったのは、11月にはいってからだったような気がする。遅れを取り返すのに、私自身もがんばったが、学校でも試験に出そうなところを集中的に講義してくれた。いわゆる補習授業で、なんとか埋め合わせをしたのである。

東大医学部の競争率は、そのころは二倍程度だったと思う。今から思うとずいぶんラクなものだが、私よりちょっと前までは無試験であった。そのころより少し前には、一高で相当よく出来る連中がよく九州大学へ進んだ。その理由はよくわからないが、おそらく新しいところを開拓しようというフロンティア精神に燃えていたのではなかろうか。そういう人は皆、えらくなって、九大医学部の重鎮となっていた。私は将来磐根の跡を継ぎ、臨床医になればいいわけだから、迷わずに東大に進んだ。

いよいよ医者としての第一歩を踏み出すわけである。立派な臨床医になるためには、一生懸命勉強しなければならない。さいわい勉強はきらいではない。体力もついたから、相当無理をしても平気だ。というわけで、授業はサボることなく(時々クラス対抗の野球試合に駆り出されたので、皆勤というわけにはいかなかったが)、ガムシャラに医学に食いついていった。

人生はちょうど潜水艦みたいなもので、浮上したときは業績も名前も顔も世の人の目に触れるが、潜水中の苦労はいっさいわからない。医学部入学は、私にとって潜水開始の時期であった。最初の授業は解剖学である。これにまず、ドギモを抜かれた。

解剖学は西成甫教授である。のちに群馬大学学長になられ、現在85歳ながら矍鑠としておられる。教室へはいってくると、やおら人骨を取り出し、いきなりラテン語でぺらぺらとやられる。こちらにはラテン語がさっぱり、ということはお構いなし。これには正直いって、大学とは大変なところだと、感心したりあきれたりしたものである。仕方なしにシュパルテ・ホルツという絵入りのドイツ語の解剖教科書と首っぴきで筆記するのだが、満足にノートがとれない。これが一年を通すと膨大な量になり、試験がまた大変だ。

医学部では生物学、薬理学、細菌学、生化学、解剖学などの基礎講座は1,2年で終え、3年から臨床講義になるが、当時は4年までに試験を通ればいいことになっていた。実にのんびりしていたものである。しかし私は、学んだ科目はそのつど試験を受けていった。だから解剖学の試験勉強は2年の夏休み約2ヶ月の間、来る日も来る日も朝から晩までぶっ続けで丸暗記し、クラスでは真っ先に、9月に試験を受けた。一緒に試験を受けた顔ぶれは、ほとんど全部上のクラスであった。

病理の三田村篤四郎教授の試験もきびしかった。例年なら顕微鏡標本を数枚示されて、それが何であるかを答えればいいのだが、その年に限って、30枚近く全部答えろという。これもトップバッターで挑戦、友人の証言によると、さいわい全部言い当てることが出来たそうだ。教授にはおほめのことばをいただいたが、同僚や後輩からは「こちらが困るよ」とうらまれたものである。生理学の草分けである橋田邦彦教授も、きびしさと暖かみを兼ね備えた方であった。第二次大戦中に文部大臣になり、終戦の1ヵ月後に64歳で自決されたのは残念である。

そのころの娯楽といえば何だったのだろう。思い出そうとしても、いっこうに出てこない。活動写真は4年間にまず見た記憶はないし、夜の巷に繰り出すことも皆無であった。ただわずかに、野球の早慶戦や早明戦を見に行った程度である。とにかく勉強が限りなくおもしろく、ただひたすら本のムシとなって、大学と生麦の家(ある期間は東京都内に下宿していたが)をピストン運動さながらに往復していたようである。潜水艦がひとりきりで深く静かに海底へ突き進んでいた時期といえる。

こんな"まじめ居士"の男が4年の時「学生結婚をした」と言えば、けげんな顔をされる方も多いだろう。本当のことである。といっても熱烈な恋愛の末などというドラマチックなものではない。相手は私が14歳にして、将来こうなることを運命づけられていた養子先の長女・智である。時期的に学生という身分であったこと以外、ごく当たり前の成り行きである。

結婚式は地元姫路の教会であげた。智が学校を出てから、ミッションスクールに手伝いに行っているうちにミス・ポストという先生と非常に親しくなり、洗礼を受けていたからである。結婚式とは言っても、名目は仮祝言であった。当時、その地方では、結婚式をあげると、ちょうちんをもらうのが習慣になっていたが、仮祝言だからちょうちんはお断わりし、改めて正式の挙式の時にいただくことにした。しかし正式の挙式はついに行なわなかった。また養父盤根が病気でふせっており、智が看病をしていたので、新婚旅行もおあずけにした。

挙式の時、智には母がいなかったので、ミス・ポストが母代わりになってくれた。彼女は第2次大戦の時、いったん帰国したが、戦後再び来日し、私たち夫婦を捜し求めた。八方手を尽くしてもなかなか見当たらなかったが、進駐軍の牧師の尽力で、ようやく捜し当てたのだそうである。彼女は今ニューヨーク市から百キロ余り離れたニュージャージー市に引きこもっているが、至って達者である。44年の秋、ニューヨークで開かれた第9回国際神経学会に妻を同伴して列席した際、70歳をはるかに越したミス・ポストに久々に再会した。結婚式に母代わりになってくれたミス・ポストは、私たち夫婦にとって第二の母親であり、今も暖かい文通を続けている。

Copyright © 2024 冲中記念成人病研究所 All Rights Reserved.