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私の履歴書

12. 医学総会会頭を務める ― あすの医学

昭和46年4月5日、第18回日本医学会総会開幕。総会の会頭をお受けしてからこの日までの四年間、ひとときたりとも私の脳裏から離れることのなかった瞬間である。

医学会総会は4年に一度、全領域の医師が英知を結集する学術集会であるが、第一回は日本連合医学会という名称で明治35年に開かれている。日本医学会総会の生まれた年と私の生まれた年が同じ明治35年というのは、私にとって何か因縁めいたものを感じざるを得ない。

さて、私が第18回日本医学会総会の会頭に選ばれたのは、4年前の42年春、名古屋で第17回が開催されたときのことである。選出方法は総会直前の分科会長会議(第17回のときは57、第18回は62分科会)の投票で決めるのだが、その前に候補者を一人に絞るのがほぼ恒例となっている。私の場合も満場一致で推された。

「会頭になってほしい」と打診を受けたときからずっと、私は固辞し続けた。会頭は想像以上に激職であり、前任者の勝沼精蔵先生ら歴代会頭の何人かは(老齢ということもあったが)そのために倒れておられる。それに私はこの大部隊をオーガナイズする実力も自信もないからである。

外濠内濠と埋められ、どうにも断われなくなった。そのころたまたま私は当時大阪府立成人病センターに入院中の今村荒男先生(第16回の会頭)をたずねた。そのとき先生は「それは君、なんだよ、医学会総会というのは、その歴史からいって医学の進歩に貢献する重要なものであるから引き受け給え。私も君が選ばれるのを歓迎するよ」と言われた。そのひとことでようやく私のハラは決まったのである。

大会スローガンは「医学の進歩と医の倫理」であり、シンボルマークとして医聖ヒポクラテスを取り上げた。「医学の進歩と医の倫理」については多言を要するまでもなく、両者は並行して進むべきものである。ところが最近の風潮は、機械化、合理化に代表される「進歩」と、患者の人権を尊重し、ていねいに診察する態度とが、ますます乖離している。ここで今一度、ヒポクラテスの原点に立ち帰り反省の足がかりにしようとしたのである。付言すれば、このスローガンを立てたのは4年前。まだ医学部に端を発した大学紛争や医療事故の続発、不正入試事件などによって内外のさまざまな告発や指弾を受ける以前のことである。

プログラム編成に当たっては、研究者の発表が実地医家に応用出来るものが少ないというこれまでの批判にこたえて、今回は双方に有益となるよう配慮した。具体的には特別講演、シンポジウムともに臨床医学進歩シリーズと銘打った演題をいくつか加え、すぐ実際の治療にとり入れられるよう配慮したのである。さらに外国人学者の講演を超一流学者六人に絞ったのも従来数十人もあり、とかく批判があったことにこたえたものであり、また講演がだれにでも完全に理解されるように、訳文もスライドに作り、講演に並行して示した。しかし開会直前になって、私どもの最も期待していた英国のハンシ・クレブス卿(組織酸化に関するクエン酸輪廻説でノーベル賞受賞)と、老年病学の泰斗、イタリアのA・M・ベ・ルトリーニ氏が病気等のため来日不能となったのは非常に残念であった。

なにはともあれ、3日間にわたる総会には医療従事者35,000人が参加し、大過なく幕を閉じることが出来た。マネイジメントに不得手な私を、日本医師会、日本医学会はじめ多くの方々が支援して下さったお陰である。会期前あるいは会期中、各方面からの忠告、激励を頂戴した。それらはいずれも医学・医療をよくしようというひとつの願いから発せられたものである。真摯に受け止め、慎重に検討し、将来にそなえたいと思った。7日の閉会式の辞の中で、私は本医学会総会が将来の総会に対し一つのターニングポイントとなれば幸いであると述べた。

この道に籍を置いて40年余に及ぶ経験から、現在考えているあすの医学について述べてみたい。と言って、決して高邁な理想を持っているわけではないし、大みえを切るつもりもない。ごく平凡なことだが、「あすの医学は、きのう、きょうの畑の上に咲く花である。いかに美しく、大輪の花を咲かせるかは、きょうの医学をになうわれわれの心構えにかかっている」と信じている一人である。

40年のキャリアは、第二次大戦を境にして、ほぼ20年ずつに二分される。初めの20年は、ドイツの流れをくむもので、患者を詳しく診察し、わずかな症状も見のがさないよう、徹底的にたたき込まれた。ところがあとの20年は様相が一変した。米国流の考え方が普及し、医療技術の向上、画期的な新薬の登場も相まって、分業体制による診断や、検査データをより重視する方向へ移ってきたのである。

いずれも一長一短がある。昔の名人芸的診断を全面的によしとはしないが、克明に既往歴をとり、納得ゆくまで診察する姿勢は、今日でも大切な要素であることに変わりはない。一方、最近の医学では、患者の命は飛躍的に救えるようになったが、患者との人間的なつながりは失われがちである。そこからさまざまな軋轢が生じ不信感を増幅させる原因となっている。

そうしたひずみの反省材料として、先の日本医学会総会においては、元法政大学総長 谷川徹三氏に「医学とヒューマニズム」と題する開会特別講演をお願いした。谷川氏はその中で、文化の基本構造として6つの頂角を持った八面体の図式を示された。八面体の六つの頂角に、政治、経済、科学、哲学、芸術、宗教を置き、その中心に人倫の世界を置くというものである。われわれに課されている医の倫理は、あらゆる文化構造の中核をなす、というご指摘に、私は深い感銘をおぼえざるを得なかった。

ところで私は、様相の異なる戦前、戦後の医学を半分ずつ修めたということで、いわば古いタイプの医者に属するが、置かれた環境においては一貫して、両方の長所を生かしながら、持てるすべての力を患者に還元すべく、全力投球をしてきたつもりである。そうした心構えが「医学の進歩」と「医の倫理」を満足する条件とは、初めから悟っていたわけではないが、医者の使命と信じ、実行してきたのである。医療不信を解消し、あすの医学に大輪の花を咲かせる道は、そうした地道な心構えから開けてくるのではないかと思う。

「伝統と創造」という。創造のためには伝統を破壊、あるいは否定しなければならないという考え方がある。しかし、伝統に従いつつ伝統を乗り越えていくことこそ、創造を生み出す王道である。「伝統なき創造は盲目的であり、創造なき伝統は空虚である」これは哲学者天野貞祐氏の名言である。このことばを医学に限定すれば、伝統は「医の倫理」、創造は「医学の進歩」に置き替えられよう。

一カ月にわたる保険医総辞退は幸いに終わった。しかし現在ほど医師が国民の注視、批判のまとになったことはない。何よりも医師の社会的、科学的良心が追及されていることを痛感する。医の原点に立ち、医学教育の姿勢を正し、内容を充実することから始め、医学・医療に取り組まなければならないと思う。しかし高度の医学を持ち、GNP2-3位の国でこのような医療のヒズミをもたらしたことに対し国は同様の責任と反省を切に感ずるべきである。

そしてまた、日進月歩の水準の高い医学を実際の診療の場に移すためには、ばく大な費用がかかることを、患者・国民全体の方々にも知っていただきたいと念願するのである。この課題は国、医師、患者の連帯責任、相互信頼の中で初めて解決され、患者に幸福をもたらし得るのである。「生命の尊重」は人々の願望する最大の目的である。しかし、このことばがそれぞれの立場を正当化する後ろだてとして安易に用いられている傾向はいましめなければならない。

われわれの当面する問題は、ますます複雑多岐にわたり、容易に解決の糸口をつかめないものばかりである。医療保険制度の矛盾、都会と地方の医療格差、公害によって新たに発生した難病の数々など、枚挙にいとまがない。

私は、あすのよりよい健康生活のために、なすべきことは何か、なすべからざることは何かを見きわめ、微力ながら難題に全力を傾注することを誓って「私の履歴書」の責をふさぎたいと思う。

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