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私の履歴書

2. 私の履歴書|小・中学校時代 ― 冲中家に養子入り

大逆事件の起こる一年前の明治42年、私は岡山市弓之町にあった岡山県立師範学校付属小学校に入学した。今、この小学校はなくなり、跡地は市立旭中学校になっているそうだ。弓之町は藩主池田候が造った名園で、日本三公園の一つと言われる後楽園のすぐ近くである。後楽園に行った記憶は少ないが、そこに沿って流れている旭川では、よく釣りをしたり、泳いだものである。泳ぎは得意で小学校一年のころはもう泳げた。

当時の同級生に大阪大学名誉教授の石本雅男君がいる。石本君は六高、京大を出たが、その後、滝川事件で京大を去り、のちに関西学院大学の法学部長や、阪大法学部教授を勤めたが、そのころから非常に頭がよかった。家が近かったから、学校の帰りは大抵一緒だったし、毎日のように一緒に遊んだ。双方の家庭とも、いい友人として付き合うことを奨励していたようである。

だが、私はどんなに遊びに熱中していても、4時になると、必ずとんで家に帰った。馬に乗った父が四時半に帰ってくるのを、家族全員が玄関で迎えるためである。厳格な父は、そうしなければきげんが悪かったのであろう。また軍人の家庭では、それが普通だったのかもしれない。

そのころどんな遊びをやったかは、よく覚えていない。が、日露戦争に勝利を収め、韓国をも併合しようという軍人はなやかなりし時代だったから、兵隊ごっこがいちばん盛んだったのではないか。しかし、石本君によれば、私はどうしても兵隊ごっこはやらなかったそうである。兵隊がきらいだったとは思わない。なのに、どんなに誘われても兵隊ごっこだけはしなかったというのは、なぜだろうか。今もってよくわからない。

「大きくなったら何になる?」と聞かれたら、今の子は何と答えるのだろうか。そのころはみんな、ハンで押したように「兵隊さん」であった。親も目を細めて「立派な軍人さんになって、お国のために尽くすんだよ」と頭をなでたものだ。ところが私ときたら「医者になる」と言ったそうである。これも石本君の証言である。私自身は全く覚えていない。

石本君お家はもともと池田藩家中、岡山の石本医院と言えばだれ知らぬ者もないくらいであった。施療患者も多く、犠牲的な治療をいとわなかった。思うに石本君の家が立派なお医者さんであったので、子供心に、医者に惹かれたのであろう。とすれば、医者になる素地はその当時からあったわけだが、幼いころの夢は図らずも実現し、感慨深い。

学校の成績は飛び抜けてよかったわけではない。石本君と1、2を争っていたともいわれるが、石本君の方が上だったことはたしかなようだ。そのほかによくできる女生徒が一人いた。全甲をもらった時、父が絵本を買ってくれ、大変うれしかったことを覚えている。

石本君とはその後別れ別れになったが、30年余りたってからドラマチックな再会をした後日談がある。昭和16年、私がまだ東大の講師のころ、石本君は陸軍主計官として満州に出征していた。そしてたまたま関東軍から東京へ出張を命ぜられた時、夢の中に幼少のころの私の顔が浮かんだそうだ。彼はたまらなく会いたくなり、東京に着くや否や電話をかけて来た。「とにかく会いたい。会って話がしたい」と言う。幼なじみの突然の出現に私は驚き、喜んだ。「軍服姿だから東大へははいりたくない。どこか外で会いたいのだが」と石本君。それでは、と二人が知っている銀座の資生堂パーラーで落ち合うことにした。

現在の資生堂パーラーは改築され、すっかり変わっているが、当時は二階建で真ん中が吹き抜けになっていた。約束の場所、二階へ上る踊り場の長いすに近づくと、端正な顔、軍服に身を包んだ長身の紳士がいる。すっかり立派になっているが、振り向いた顔は、30数年前の面影をわずかに残していた。彼も、頭は薄いが昔と変わらぬ大きな頭の人が階段を上ってきた時、即座に私だと直感したという。その時以来、今も家族ぐるみのつきあいを願っている。

さて、小学校2年の終わりごろ、父が大佐で退役した。血圧が高く、健康もすぐれなかったからである。退役となると岡山にいるわけにはいかない。そこで母親の里である東京の王子に移ってきた。敷地が五百坪(1,650平方メートル)近くもある大きな家であった。生まれてから五度目の転居である。転居した日は明治43年の大みそかか、44年の正月を迎えていたかはっきりしない。とにかく非常に寒い朝の旅立ちであった。

岡山から東京までの汽車の旅は長い。子供は退屈すると、もう帰りたいとか、あれが食べたいとかむずかる。そこで母親は一計を案じた。上京する数日前、母親は級友石本雅男君の家を訪れ、鉄道唱歌の本を借りてきた。巻き紙に全部写し、これを車中でおしまいから教えれば、少しは時間がかせげると思ったのである。この計画が成功したかどうか定かではないが、一事が万事、こういうふうに機転のきく母親であった。

父米丸は一兵卒から大佐にまでなったのだから大変な努力家であったが、一面、直情径行で曲がったことは絶対に許せないがんこ者でもあった。岡山の大佐時代、建築支部長も兼ねていた。師団の設営関係の采配をふるっていたわけだが、業者からはさまざまな贈り物が届けられる。それが常識だったのであろう。しかし父はそれを全部突き返してしまった。役職としてこの地位にいるのであって、私個人にもらう筋合いのものではない、というのだ。スジとしては当然のことを通したまでだが、そういう強情なところがなければ、同期の田中義一大将ほどの大物にはならないまでも、もっと出世していたはず、と聞いたことがある。

王子に移ってからは、東京府北豊島郡王子尋常高等小学校(現在の北区立王子小学校)の2年に編入された。たしかよく出来る子に大岡君という神主さんの息子さんがいたが、今はどうしておられることか。住まいはそのころ王子1048番地。音無橋を渡って登校したものである。地方から東京の学校に転校してくると、成績が相当下の方になるのが普通であろう。しかし私は、どこへ行っても特別よく出来ることはなくても、せいぜい五番以内に食い込んでいる。環境に順応しやすい性質なのだろうか。皆と歩調を合わせるという意識はなかったのだが。

そのころから家計は苦しくなってきたらしい。父は退役して静養中であったから収入は多く見込めないし、そのうえ曲がったことはきらいときている。粗衣粗食のうえに私は生来病弱だったせいもあり、5年の時の体格検査では、わずか五貫八百匁(21.75キログラム)と今では信じられないくらい軽かった。「お前はいったい何を食っているのか」と先生に言われ、実に恥ずかしい思いをしたものである。食欲も少なく、兄弟が多かったので、まごまごしているうちにご飯を食べられてしまうこともあった。

父親はいつのころからか、玄米食療法に凝っていた。家の一角に米つき場を作り、2、3分づきにする。米つきは子供の役目だが、足踏み式で半時間近くかかる。しかもこの玄米を弁当に入れて行かされるのには閉口した。ほかの子と比べれば雪と炭。父親にせめて弁当だけは白いご飯にしてくれと頼んでも、がんとして受けつけない。

中学1年の夏、どうも目の具合いがおかしい。夕方になるとボーとかすんではっきり見えなくなる。医者にみてもらうと夜盲症だと診断された。俗にいうトリ目である。これはビタミンA欠乏から起きるもので、放っておくと角膜軟化症などになり失明の恐れさえある。昔の盲人はほとんどそれである。さいわい2、3週間でなおり、だれにも気付かれずにすんだが、これも当時の粗食が招いたものであろう。なんともお粗末な話である。病弱でやせっぽちのからだながら、結核、肺炎、肋膜などに見舞われることなく、なんとかやってこられたのはもともとシンは強かったのだろう。運もよかったと言える。

ところで父親の持っていた性格を、私はほとんど全部受け継いでいるようである。ほかの人よりいくらかはまじめであり、努力家であった。また、時として強情っぱりのところも見せた。酒を飲めば飲めるのも父親譲りであろう。年をとるにつれて、容貌も父親そっくりになってきた。父は大正10年脳卒中でなくなった。66歳であった。

王子時代の思い出といえば、授業中に近くの貨物引き込み線で、貨車がきしむ音がよく聞こえていたことぐらいで、起伏の少ない毎日であった。当時父としては私を父と同じく軍人にするつもりであった。そのため6年を終えると高等科に進んだ。ゆくゆくは幼年学校にはいるためである。

だがこの時運命を変える大波がやってきた。私の全くあずかり知らぬ間に、恐らくいとこ同士であろう父米丸と冲中磐根(先にも述べたように太田満穂の二男で、のちに兵庫県飾磨郡東山=現在姫路市=の冲中家に養子に来た)が、私の養子縁組みをまとめてしまったのである。これは私の想像だが、磐根が「あの子をもらって医者にしたいが」と持ちかけたところ、米丸が「よかろう」というような運びだったのであろう。かくて大正5年、私は冲中重雄となった。

冲中という姓は今も姫路市の南東郊外、東山地区には多い。先祖は姫路の殿様の御用達をしていて冲中姓をもらったそうだ。オキはサンズイのはずだが、姓をもらった時祐筆が間違えて冲と書き、そのまま固有名詞となってしまったらしい。養父磐根は幼少のころから大阪に出て薬学を修め、薬剤師の免状を得、さらに独学で医者の免許をとった苦学力行の人である。生野鉱山の医師のところで薬剤師として働き、その後医師の免許をとったが、姫路郊外の東山の冲中家の養子となり、近くの妻鹿町で開業した。磐根も養子、私も養子、さらに私自身にも子供がいないので養子をもらった。三代続いての養子は、大変珍しいのではなかろうか。

磐根は、あれほど患者のために誠心誠意尽くした人も少ないと思うほど、実に立派な医者であった。新しい医学雑誌にもよく目を通し、新しい薬を積極的に取り入れるなど、なかなかの勉強家でもあった。そのため非常にはやり、のちには立派な白壁囲いの家を建て、女中、車夫らを数人おき、地元の名士に名を連ねた。昭和13年、66歳でなくなった時、地元の新聞は写真入りで大きく報道している。私が今日あるのも、磐根いたればこそであろう。どんなに感謝しても、まだ足りないくらいである。

ところで私が冲中家に養子にもらわれてきたのには、将来医者の跡を継がせるという目的のほかに、もうひとつの含みがあった。長女・智とめあわすためである。智は私より一つ年下で、色の白い、やや小柄な、おとなしそうな娘であった。結局私が14歳、智13歳にして将来の伴侶の決定が下されたのである。

冲中家の跡継ぎになったとはいっても、私は相変わらず実家に住んでいた。いわば太田家に〝下宿〟していたわけである。しかし、医者になるなら、それ相当の学問をしなければならない。

ちょうどそのころ一家あげて横浜の生麦に転居した。そこで私も軍人志望から一転、医者になるべく、近くの神奈川県立第二横浜中学校(現在県立横浜翠嵐高校)に入学した。当時開校したばかりの学校で、私が第三回卒業生。最初の卒業生には日立製作所社長の駒井健一郎氏がおられる。

中学時代は第一次世界大戦や、ロシアの10月革命など世情騒がしい時期であった。が、それらへの関心はほとんどゼロに近く、ただ黙々と勉強に励んでいたようである。成績は数学、物理よりも、英語、国語の方がいくぶん得意だったような気がする。

夏休みには、新子安や子安のあたりの海で泳いだりしたこともあるが、たいていはずっと妻鹿に帰っていた。私も智もお互いにまだ「それ」と意識していず、どちらかと言えば兄妹のような関係であった。しかし、こんなこともある。私には勉強部屋として二階の一室があてがわれた。母親が智に「お菓子をさしあげて来なさい」と言ったが、智は恥ずかしくてどうしようもない。やっとの思いで階段を忍び足で上がり、菓子盆を入り口にそっと置き、逃げ帰ったという。兄妹のような、とは言っても、そこはそこ。50数年たってからの妻の打ち明け話である。

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