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私の履歴書

10. 臨床教育を強化 ― あえて誤診率を発表

大学の医学部というところは、研究、臨床、教育の三本柱からなっている。どれかひとつが欠けても成り立たないものであり、教授の力の入れ具合いもほぼ均衡しているのが建て前である。しかし実際には均衡しているところはほとんどないと言っていいだろう。

とりわけ教育に力を注ぐということは、一般の方々が想像される以上に大変なことである。教授、助教授、講師は別としても、医局員のなかには、自分は研究のために医局にいるのであり下の者の教育に時間をつぶされるのはまっぴらご免、という不心得者もいる。一方、こうした考えが生まれるのも、医学教育の制度やあり方そのものにも原因がある。無給医局員の存在などもその一因をなしていると思う。これではいけない。医学全体のレベルダウンにつながるうれうべきことである。

私自身、教育に関しては自分としてかなり努力してきたつもりであるが、どうしても微力である。教育面をいっそう充実するためには、体系的に、キメ細かい改革がぜひとも必要だ。というわけで、35、6年ごろから二つの方針を打ち出した。

ひとつは、あとから"冲中構想"とかいわれたそうだが、講座を専門別に細分化しようという計画である。この構想を思いついたのは、昭和29年の第一回世界心臓学会に出席し、米国を視察した際、たとえば内科教室の中がよく細分化され、優秀な専門家が育っていて、しかも全体としてよくまとめられている様子を目のあたりに見たからである。

東大を例にとれば、三内科はどれも大体同じような研究をやっており、実にむだが多い。それに医学の進歩とともに、内科学全般をひとりの教授が担当するにはとても手に負えない情勢になってきた。私自身、比較的弱い分野の講義には非常に骨を折ったし、その専門の助教授や講師の手をわずらわすことも多くなってきたのである。この際、各内科教室の壁を取り払ってひとつにし、各研究グループをまとめていけば、よい形になるわけだ。

かくてさまざまな曲折の末に37年の中ごろ、全教室の講座再編成の計画が出来上がった。内科学教室について言えば、消化器、神経、循環器、呼吸器・血液、代謝・じん臓、内分泌・老年病、物療、リューマチ・アレルギー、感染症(伝研)、内科保健(分院)の十講座に分け、それぞれに教授一人、助教授二人、講師、その他助手を置き全体のまとめはチェアマンが行なうというものである。

結果的にはこの構想は不発に終わった。実施するとなると、膨大な予算が必要となる。教授、助教授とも定員は数倍にふえ、それに見合った施設も見込まねばならない。しかし、から振りだったとは言え、私は今もこの方針は間違っていないと信じている。

もうひとつの改革は、学生(3年生から)にベッドサイド教育をとり入れることである。これは、内科以外の科にも呼びかけ、一時は医学部臨床系全体で実施しようというところまでいったが、実施したのは結局内科だけであった。最近では各大学でも学生のベッドサイド教育をとり入れるようになったが、わが国では岡山大学が比較的早く採用していただけで、ほとんど行なわれていなかった。

欧米では多数の教育要員が学生ひとりひとりについて臨床教育にあたり、内科も産婦人科もすべて実習させるのが常識になっている。それほど臨床教育に力を入れているのである。ところがわが国では階段教室に100人近くの学生を入れた臨床講義が中心であり、やや進んだ形としては教室ゼミナールくらいのものである。そこで3年の医学生全員をわけて四内科(物療内科も入れて)に配属し、一カ月間臨床に当たらせたのである。学生たちは熱心に文献やデータを調べ、わからないところは教授をはじめ先輩を徹底的に追求した。私たちには大変な苦労であったが、それなりの成果はあげ得たようである。

この試みは構想倒れで終わることなく、今もさらに改善された形で受け継がれている。インターン制度は若い人たちの反対で廃止になった。これにはわれわれも責任があるが、患者の立場を考えると内容を改善して存続するべきであったと、私は今でも思っている。無給は当然有給として身分を保証する。そして教育要員、設備の充実を図った環境で実地修練を行なうのが医学教育の本筋である。そして現在よりもっときびしい国家試験を行ない、医師の免許を与えるべきであろう。「たらいの水と一緒に赤ん坊まで捨てた」ということわざがあるそうだが赤ん坊まで捨ててしまっては困るのである。

昭和38年3月4日。教授になってから824回目の、そして最後の講義の日である。取り上げたテーマは「内科臨床と剖検による批判」という非常に地味なものであった。ところがこの中で「私の教授在任中の誤診率は14.2%である」と発表したことが社会全般にも一般の医師の方々にも大きな波紋となって広がった。ある雑誌の表現によると「われわれ患者はその率の高いのに驚いたが、一般の医師はその低いのに感嘆した」のである。

最終講義のテーマに、私は当初、文句なしに、一番得意な自律神経系に関する研究を取り上げるつもりでいた。しかし想を練っているうちに、自分は得意になって話していても、学生にはわからないことが多い。これではひとりよがりにすんでしまうということから、1月になって急きょテーマを前記のものに変更した。

誤診率を発表するのは、自分の至らなさをさらすわけだから、本来恥ずかしいものである。しかし医学を志す学生たちに「徹底的に診断しても、厳格な基準のもとでは、誤診はこんなに出る。医学とはむずかしいものなのだ」ということを言うために、あえて苦い経験を披瀝した。と言って気負ったつもりは全くなく、今もって語り草にされようとは夢にも思わなかった。正直なところ意外な反響の大きさに、こちらの方が驚いたくらいである。

16年間(昭和21年12月-37年12月)の剖検率は平均86.2%である。内訳は入院患者総数8512人、死亡1044人で、これは約12%に当たる。剖検数900、非剖検144で86.2%というわけだが、35年以降はほぼ90%ラインに達している。この数字は世界的に見てもトップクラスにはいる。ちなみに昭和32年度の国立、公立、私立の各大学における内科の剖検率はそれぞれ51.6%、36.2%、45.5%となっており、剖検率がその大学や病院の医学レベルをはかるバロメーターになっている。

剖検に同意してもらえなかった理由をあげると、理屈抜きでイヤだというもの、医師のやり方に不満、患者の遺言、宗教のからむもの、ひとりっ子だから勘弁してくれというものなどさまざまである。医師のやり方に不満という声は、私たちが重々反省しなければならないが、このうち入院して比較的短時日の20日以内の死亡が61(全非剖検数の50%弱)もある。つまり十分な診断が出来ないままに、不幸にしてなくなられた場合が非常に多いのである。

さて剖検例900のうちから、正確なデータのとれる750を対象に、年度別、疾患別などの誤診率をはじき出したのであるが、他の学者の誤診率と比較して優劣を判断するのは意味がない。と言うのは、各自誤診率の基準があるからいちがいには比較出来ないのである。

私のところでは、3つの判定基準を設けた。第一は臓器の診断を間違ったもの。とんでもない誤診だが、全く起こらないわけではない。第二は臓器の診断は正しいが、病変の種類を誤ったもの。たとえば肝硬変と診断したが、剖検では肝に小さいガン性の病変が伴っていたり、普通の慢性腎炎としたところが、実際は慢性腎盂腎炎といったたぐいである。

第三はガンに関するもので、診断と死因の剖検所見は一致する。しかし原発巣は別のところであった場合も誤診としたのである。肝臓ガンと診断し、剖検による死因も肝臓ガンであった。ところが原発は胃ガンで、肝臓に転移してそれが死因となったものも含めたのである。これは非常にシビアな基準と言っていい。

最終講義を閉じるに当たり、私は先覚者の残された次の名言を学生たちへの贈りものとした。書かれた医学は過去の医学であり、目前に悩む患者の中にあすの医学の教科書の中身がある。

若き日の私に決定的な影響を与えたのは呉建先生である。養父に次ぐ第二の養父と言っていいと思う。だが私が今日あるのは多くの尊敬する先輩があったことを忘れるわけにはいかない。あるときはきびしく、あるときはやさしく陰に陽に私を育てて下さったのである。

稲田竜吉先生。ワイル氏病(黄だん出血性スピロヘータ病)病原体の発見というすぐれた業績をあげられたばかりでなく、臨床家としても大成された方で、患者からも深い尊敬を得ていた。性格は呉先生とちがい重厚であった。臨床講義のとき、その患者に関係ないことであっても学生が笑ったりするときびしい表情で「ニヒト・ラッヘン」(笑ってはいけない)といましめられた。診察前には必ず手を洗うこと、一度足に触れた手で、再び顔、頭を診察しては、患者に不快感を与えるので決してしないように、とつねに患者中心の考えに立って行動された。

熊谷岱蔵先生。東大青山内科から東北大学へ赴任、のちには学長もおやりになった。1922年、米国のバンチイングとベストがすい臓のランゲルハンス島からインシュリンの抽出に成功した(ノーベル賞)が、先生もほとんど同時にインシュリンを発見しておられた。学問的業績としては米国の二人に決して劣るものではない。後半生は結核のぼく滅に全力を注ぎ、多数の新知見を残された。衰えを知らぬ研究心、大きな抱擁力にいつも頭の下がる思いであった。

勝沼精蔵先生。三浦謹之助先生の門を出て、名古屋大学の声価を高められた。白血球の中の酸化酵素(オキシダーゼ)発見者としても有名である。私は15年ばかり先輩だが、学会ではいつも私を暖かく見守り、ひき立てて下さった。

今村荒男先生。東大を出て伝染病研究所(現在、医科学研究所)から大阪大学へ移られた。BCG接種を積極的に実施し、結核予防に大きな足跡を印しておられる。直接教えを受けることはなかったが、勝沼先生とともに、私のよき理解者、相談相手であった。

小野寺直助先生。一高から九州大学に進み、九大を発展させた功労者である。消化器の専門家で、ちょっとまねの出来ない名人芸をもっておられた。小野寺の圧痛点といって、胃かいようなど内臓疾患は腰部を押さえてピタリと当てる。また小野寺曲線というのも考案された。ふくらませた風船を胃の中へ入れ、胃の動きを曲線に描き、レントゲンの補助診断法としたのである。昔気質の名医であったが、患者の観察・診察の大切さをこんこんと教えられた。

西野忠次郎先生。三浦、島薗内科出身で慶応大学の臨床の基礎を築いた方である。大学は異なるが専門が私と同じ神経系統なので教えられることが多く、先生の方も私を非常にかわいがって下さった。昭和35年4月日本内科学会理事長をおやめになるとき、「冲中君、次は君がやってくれたまえ」と名ざしで後任をおおせつかったのが印象深い。大変な酒豪でもあった。

佐々廉平先生。東大を一番で卒業されたが、ご家庭のつごうで開業されたそうだ。しかし臨床の研究では大学人をしのぐ業績を上げておられる。野にあっても心構えひとつで医者の鑑になれることを身をもって証明しておられる。

ほかにも緒方知三郎先生、田宮猛雄先生、坂口康蔵先生、柿沼昊作先生ら、畏敬の念をいだいた先生方は枚挙にいとまがない。そうした先達の業績に鞭撻され、人柄に私淑して、私自身をみがいてきたわけである。

一方、私がほぼ満足な学者生活を送れたのは、すぐれた後輩に恵まれたことにもよる。人一倍きびしい(と言われる)トレーニングにもよく耐え、協力者としてともに歩んでくれた後輩たちに深く感謝したい気持ちでいっぱいである。

ところで、よその大学や研究所からだれか教室員を推薦してくれと頼まれたとき、必ず手ばなすには惜しい優秀な人材を送ることにしている。仮に優秀でない人を地方の大学病院等へ送り込めば、その人は必ずと言っていいくらいそこで埋もれてしまう。しかし、優秀な人なら、どんなところに置かれても必ず大成するのである。私のところは一時的には戦力低下となるが、次々に若い優秀な人がひかえているのでトレーニングを積むことによって、また盛り返せる。この方針は、私の人事異動の信念である。どこの社会でも通用すると思うのだが、いかがなものであろうか。

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