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私の履歴書

6. 医師促成教育 ― 8月15日に召集さる

昭和19年ごろから、戦局は日一日と悪化し、医局員も次々と出征した。一時は百数十人いたのにわずか7、8人、いなかに疎開した先生方もあり、火の消えたようなさびしさとなった。電灯、水道、ガスもとまることがあり、研究も細々としかやれない。ヘルメットを背負い、ゲートルを巻いて実験をした日もある。蛋白質の極端な不足のため、実験のすんだ犬やうさぎの肉等を食べたこともある。

妻はいなかに疎開させ、私はほとんど助教授室に泊まり込んだ。当時、目白に借家住まいをしていたが、文献やメモ類など研究関係のものは全部そのままにしておいた。死なばもろともという悲壮な覚悟である。ただ将来、開業した場合に、単なる開業だけでなく、本を書くとか何か学問らしい生活をしたいというささやかな希望を託して、内科学講義のバイブルともいうべき「モール」(ドイツ語で全15巻)だけは送っておいた。また養父が使っていた医療器具も開業に備えてそっくり残してあった。

3月9日から10日にかけての東京大空襲で借家のあった目白も池袋の方から火の手が迫ってきたが、幸運にも、火事は家のすぐ手前の電車通りで鎮火した。さらに5月24-25日の大空襲の時も私の家を含めたわずか50メートルくらいの一帯が焼け残った。だから、文献や研究メモ類は全部難をのがれた。あとでそれらがどれほど役立ったかは言うまでもない。

戦後になると、焼け残った家は、どんなに高くても借り手はいくらでもいる。なのに私が安い家賃で居すわっているものだから家主が弁護士を中に立てて立ちのきを要求してきた。その時はこちらに強力な味方がついてトラブルは解決したが、いつまでも居すわるのは気の毒になって、土地を捜し始めた。一高の後輩大森清一君(形成外科の専門家で当時警察病院医長)が土地を見つけて来てくれたが、資金がない。しかしこの時も旧友が力になってくれた。友だちとはありがたいものである。

一高時代同僚の野田卯一(当時大蔵事務次官)、沢野三郎(住友信託銀行重役、故人)の両君が、金を工面してくれたのである。家の方も大森君が、親せきが野尻湖に持っていた別荘を世話してくれた。その別荘を建てた大工さんを、解体した別荘と一緒に連れてきて、二週間くらいで再建してもらった。今の家は、あとから建て増しをしたけれども、骨格はその時のままなので、しっかり安定感がある。

昭和20年の初夏のころだったと思う。一般の医師も軍医も底をついてしまったので、歯科医を短期間養成して医師にしようという計画が持ち上がった。ずいぶんむちゃな話だが、危急存亡のとき、背に腹は変えられないとして実行に移された。

つまり20年の春、「歯科医師を一年以上経験した者は、医師の試験が受けられ、合格者は6カ月間医師の訓練をしたのち免許を与える」という戦時の緊急措置令が出、これにのっとり試験準備のためにわれわれが二カ月間講義を行なったのである。

当時の東大医学部長は、ツツガムシ病の研究で名高い田宮猛雄教授である。講義に携わるわれわれ全員を教授会の室に集めて訓辞をされたあと「この統率役は冲中君、きみやってくれたまえ」と言われた。田宮先生とは専門は違うが、どういうわけかそのころから私を高くかっておられたようである。

速成教育は熊谷市の女学校の講堂で行われた。空襲に脅かされながら、すし詰めの教室で、内科学10時間、外科学10時間、次は耳鼻科・・・・・という具合いにやっていく。臨床講義などやれるわけがない。今思うと、万やむを得ない措置とはいえ、そら恐ろしいことである。20年9月に試験、翌年4月から6カ月訓練したのち医師免許を与えたそうだが、何人巣立っていったかは、はっきりしない。私の記憶では、内科学では柿沼昊作、坂口康蔵両教授が試験問題を作られたが、成績はかんばしくなかったと聞いた。

ついでながらこの時の講義録をもとにして編んだ本の一部が、今も広く利用されている「内科診断学」(高橋忠雄・大島研三両氏との共著)である。はじめは基礎から臨床まで28巻の叢書(といっても薄っぺらなハンドブックであったが)で、終戦後、本のない時代に、大いに役立ったものである。叢書のうち今に残るのはこの本だけになってしまった。

さて、私は助教授だから召集はされまいとタカをくくっていた。ところが19年に「軍医予備制度」がつくられ志願者を募った。志願すれば予備少尉として登録されるのである。私は戸籍上姫路の第十師団から2、3回、半ば強制的に誘いの声がかかった。命令ではないから黙殺していたのだが、このままだと、懲罰招集を受けるかもしれないという予感がしてきた。

そこで20年6月ごろ、生命の危機を本能でキャッチしたとでもいおうか、とにかく志願することにした。どうせひっぱられるなら陸軍より海軍の方がいい。海軍に志願しておけば、陸軍からはもう言って来まい。ところが海軍の方の募集は、4月に終わっている。とってはくれまいとは思ったが、"当たってくだけろ"と、当時海軍の医務局のあった目黒の雅叙園へ一人で出かけた。幸か不幸か、お前ならとってやる、召集まで待っておれということになった。

ほどなくして電報で召集令状が来た。「8月15日午前10時、戸塚(横浜)の海軍衛生学校に入営すべし」1ヶ月間の教育召集の日がついにやってきたのである。その日、敵の飛行機が飛びかい、空襲警報がけたたましく鳴るなかを、戸塚駅で降りた私は松並木をトボトボと歩いて行った。背中のリュックサックが肩にくい込むように重い。目的地にたどり着いたら、全部四十すぎのロートル軍医ばかりが集まっている。顔見知りも少なくない。到着早々やらされたことが、なんとぞうきんがけ。モップで廊下をごしごしやったあとは敬礼の訓練だ。いかにも日本的な訓練だと、今思えば笑いがこみ上げてくる。

そうこうしているうちに終戦の詔勅である。来るものが来たとは言うものの、入隊して間もなくのことであり、文字通りあいた口がふさがらなかった。わずか2時間の召集ということになる。ところが実際には、どういうわけか二晩泊めおかれた。6時の起床ラッパで飛び起き、蚊帳を巻き上げてからすばやく服装を整え、練兵場に集合する。終戦前と同じ訓練をそのときもやったわけだ。放免のときは、少尉の服装一式をもらった。これはその後物資が手にはいらないときには重宝したものである。

もしあのとき、陸軍に行っていたら、恐らく私は生きてはいないであろう。姫路、岡山、広島あたりの同じくらいの年齢の医師は全部広島に集められたのは、れっきとした事実なのだから。友人の医師は他の医師たちとともに8月6日の運命の日、広島の練兵場で裸で体操をさせられていて全滅したということである。このときの運命のめぐり合わせにも、感無量とならざるを得ない。

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