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私の履歴書

5. 10年間一日も休まず研究 ― 上海行き

五・一五事件、国際連盟脱退、二・二六事件、日華事変と日ましに軍靴の音が高まり、風雲急を告げる情勢のなかにあっても、私はただひたすら研究室にこもっていた。医局にはいってからおよそ10年間というもの、日曜・祭日といえどもほとんど休みをとったおぼえはない。

帰国した翌年に学位を取り、講師に抜擢された。無給副手から、講座助手を飛び越して"二階級特進"である。それでも無給のままで、盆・暮れといえども一文もくれない。結局初月給は"不惑"を一つ越した昭和18年、助教授になった時である。実にほぼ15年間、講義をしても患者を診断しても全くのただ働きであった。だから恩給計算は18年から始まっている。

生活費はずっと養父磐根の仕送りを受けていた。しかしまるまる仕送りをしてもらうのは、何といっても心苦しい。そこで昭和9年、一高の寮の医長となって、いくらかかせぐことにした。以来父から百円、一高医長として百円、計二百円が月々の費用であった。まずは中流の生活と言える。13年に養父が死に、仕送りが途絶えてからは、妻の着物を売って学会行きの旅費や生活費のたしにあてたこともある。それでも本代だけは毎月20円は確保していた。

講師になったころからの私は、他人の目に変わり者と映るような信念を持ち、ずっとそれを押し通してきた。ひとつは、講師ともなれば、あちこちから患者が紹介状を持ってたのみにくる。全部お付き合いしていると、丸一日それでつぶれてしまうこともある。そこで私は、外来の診察や回診など、決められた職務は寸分も怠らなかったが、それ以外の診療は全部お断わりした。生活に窮したのも、そのためである。助教授のころもこの方針は極力押し通したが、教授になってからはそうもいっておられず、頼まれた診察も引き受けるようになった。

もうひとつ変わっている点は、オフィシャルな仕事上の約束はするが、個人的な付き合いの約束はしない主義である。つまりレジャーにしても、医局や病院で一緒に旅行しようという時は喜んでお付き合いするが、ゴルフの何々会があるから来てくれないかというのには、ほとんど行ったことがない。

帰するところ、すべて自分の時間がほしいからである。自分の時間を犠牲にしなければならないほど苦痛なことはない。勉強していようと寝転がっていようと、それは自由。約束してしばられるくらいなら、初めからご遠慮申し上げた方がカドはたたない。むだなけんかをしないですむ。恐らく多くの人に誤解されたのではなかろうか。変わったヤツだと白い目で見る向きもあったことと思う。今でこそわりあい社交的になってきたが、自分自身、かたくなな性格だったことは否めない。

ところで自分で言うのはまことにおこがましいが、昭和10年ごろから「呉内科に冲中あり」とか「呉先生があれだけの業績をあげられるのは、冲中がいるからだ」とか学界人の間でささやかれていたという。評価はともかく、少なくともほとんど先生の片腕となって研究に取り組んでいたことは事実である。

そうした矢先、一大ショックが私を襲った。呉先生が心筋こうそくで急死されたのである。昭和15年、58歳という若さであった。それより3年前に一度発作で倒れ、その後、病後とは思えぬほど精力的に仕事をしておられたのに、全く突然つっかえ棒がはずされた思いであった。

かくてその翌年、呉内科の跡継ぎに佐々貫之氏が赴任された。佐々教授は東大の青山(胤通)内科を出て、千葉大学教授をしておられたが、私とは研究分野が違っていることもあって、それまではそれほど面識はなかった。温和な、いいお人柄で「これまでの仕事はどんどんやりなさい」と言われ、18年には助教授にしてもらったが、佐々先生はやりにくかったことと思う。

なにしろ従来からやっていた自律神経の研究グループは私が掌握し、采配をふるっている。出征から帰ってきた医局員にこの方面の研究テーマを出すのも、論文に目を通すのも私がやる。といってこちらも教授には遠慮があるから、あまり出しゃばってやるわけにはいかない。お互いにどことなく違和感があったと思う。戦争も激しくなってきたし、研究生活もこのへんが潮時、いよいよいなかへ帰って開業するか、と本気に考え始めた。

助教授を続けるべきか、開業医になるべきか、悶々とした日を送っている時、佐々教授からお呼びがかかった。

「同人会が上海に医科大学を作り、これを東京大学医学部が支援することになった。ついては君に学部長で行ってもらいたい。学長は外科の都築正男教授(故人)が行かれるはずである」

とっさに私は、いよいよ追い出されるな、と観念した。私の思いすごしであったかもしれないが、正直なところその時の心境はそうであった。

同仁会というのは、片山国嘉、岡田和一郎の両氏(いずれも東大教授・故人)がわが国の医学・医療を大陸に及ぼすことを目的として、明治35年に設立された学術団体で、初代会長には長岡護美子爵、副会長に北里柴三郎氏が就任している。この同人会が、上海に東大を中心にして「同仁大学」を創立しようというのである。日本軍が占領していたレスター・メディカルインスティテュートという基礎医学研究所を大学本部とし仁斎病院ほか二病院を付属病院にする計画であった。

上海行きを断るのは大学にもいられないことを意味する。「とにかく行ってみよう。行ってから考えよう」と意を決して、昭和18年8月の暑い日に神戸から上海へ向かった。出発前日まで実験はやめなかった。

東支那海には敵の潜水艦が出没し、いつ爆破されるかわからない。こちらには小型の魚雷艇が護衛してくれたが、ジグザグで航行し、生きた心地がしない。やっとの思いで上海に着き、関係者と話し合ったり、付属病院となるはずの病院を視察したが、どうも満足なものは出来そうにない。ここで学生を教育し、自分も研究を続ける自身はとてもない。また町を歩いてみても、中国人は負けているような顔はしていない。物資は高いが豊富にある。明らかにわが国の負けいくさの様相を呈していた。

私は上海に二週間いたが、見込みなしと判断し、独断で帰国することにした。ところが帰る船がない。実際には飛行機も飛んでいたし、船も通っていたのだろうが、大学助教授くらいでは乗せてもらえない。必死になっていろんな船をあたってみたが、みんな首を横に振るばかり。万策つき、悄然として、路面電車の走っている大通りを引き返してきた。

ゴトゴトと電車が通るのをやりすごしてから通りを横断していくと、どんと人にぶつかった。顔をあげてみるとなんと一高時代、朶寮二番で同室だった綾部小太郎君ではないか。彼は東大農学部を出て商工省にはいり、高官となって上海に来ていたのだ。大使館や軍部とも関係が深かったようだ。

「どうしたのだ、冲中。顔が真っ青だよ。それにしてもなんでここに・・・・・」「実はこういうわけだ」と顛末を話すと、「よし、オレが助けてやる。あす、上海丸がたつからそれに乗せてやろう」と胸をたたいた。"地獄でホトケ"とは、まさにこのことだろう。あの時、綾部君に会わなかったら、その後の私はいったいどうなっていたことか、今思い出しても背筋の寒い思いがする。綾部君はその時、私がよれよれのズボン、シャツを着ているのを見て、百貨店へ連れて行き、全部新調してくれた。翌朝、迎えに来た車に乗っていくと憲兵の関所はフリーパス。上海丸でも一等船室(二人室)があてがわれた。上海丸は長崎でわれわれを降ろした後も長崎-上海航路についていたが、その年の秋、海軍の大船団の中に突っ込み衝突、沈没してしまったという。それにしても綾部君とのめぐり合いは奇蹟というほかはない。

綾部君はその後天津で終戦を迎え、暴徒におそわれ危うく殺されそうになるところを中国人に助けられて帰国したが、レッドパージののち病気がちであった。私は恩返しのつもりで精一杯のことはしたが、不幸にも十数年前なくなった。

同仁大学はその後、19年春に80人の学生募集をしたが、現地人には日本が負けることは目に見えていたので学生が集まらない。受験に来たのは3人の日本人女学生を含む8人ほどであったそうだ。結局、東二郎君(現都外科部長)が学部長となり、ほそぼそと授業を行なっているうちに終戦を迎え、同仁大学は自然消滅となった。

この計画には、東京女子医科大学教授で日本心臓血圧研究所長の榊原仟氏ら数人が派遣された。榊原氏らの証言によると、仁斎病院は6階建で施設のよく、ベッド数も500を越す大病院、あとの二病院も私が見聞きしたほど程度の低いものではなかったという。榊原氏は21年にやっと故国の土を踏んだが、彼はその前にもフィリピンのバターン半島で敵前上陸を敢行し、九死に一生を得た体験もしている。

長崎から汽車に乗り、東京に着くと私はまっすぐ都築教授の部屋をたずねた。都築教授は時々飛行機で上海へ行かれる程度で、ほとんど東京におられたようである。

私は開口一番、決意を申し述べた。

「先生はあそこに大学がつくれるとお思いですか。さまざまな情勢から判断して、私にはとても出来るとは思えません。したがって、私はご辞退申し上げる以外にございません」

医学部という序列のきびしいところでは、上司に反論するなどということはタブーであった。が、私は必死だ。ことばづかいはていねいで、おだやかな言い方に気を配ったが、いわば食ってかかったわけだ。あれほど激しく反発したのは、あとにも先にもないことである。

先生は理論的に話を進めていく静かな方で「君、そんなことを言うのはけしからんじゃないか」という言い方はされなかった。しかし私には納得出来ない。激論すること一時間、先生もだまってしまわれたので、一礼して部屋を辞した。

こうなったら辞職以外にない。私は、辞表をふところに病院長の坂口康蔵教授をたずねた。坂口教授は大変な苦労人で温厚そのもの。生前の呉先生とも非常に親しく、私にもやさしくしていただいた。私の話を聞いても「辞表はちょっと待て。そのうちに・・・・・・」と言って受け取られない。佐々教授にも報告したが結局うやむやのうちに、以前と同じく研究を続けることになった。

私が上海へ行くについては、教授会でもいろいろと異論もあったようだ。"追い出し"と勘ぐったのも、その後しばらくして教授になったのだから、思いすごしかもしれない。だがそのころの心の苦しみから、私は貴重な教訓を得た。「逆境にいる時に、すべきことを投げ出してはいけない。そういう時にこそ、幸運は根ざしているのだ。むしろ調子にのっている時こそ危険なので、十分な警戒が必要だ」 若い人に私はよくそう言っている。

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