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私の履歴書

4. 呉先生のシゴキ ― 国際神経学会へ随行

昭和3年、私は東大医学部を卒業、内科を専攻する決心を固めた。当時東大内科は稲田竜吉、島薗順次郎、呉健の三氏主宰である。いずれも立派な業績をあげておられる方であり、さてどこへ進もうかというわけである。結局、呉内科を選んだのだが、思うに呉先生がいちばん若く、精力的に研究に打ち込んでおられる姿に強く惹かれたからであろう。ここでも負けじ魂が頭をもたげ、呉内科がいちばんやりがいがある、と読んだのである。この時から、呉内科の猛烈なシゴキが始まる。

呉建という名前を聞いても、このごろでは知る人は少ないようだが、いろいろな意味で天才的な頭脳の持ち主であった。先生はプラーグ大学のへーリング教授、ベルリン大学のクラウス教授のもとで研究ののち、38歳で福岡医科大学(現九州大学医学部)教授、43歳で東大教授になられた。

家庭にあっては、奥さんに一部始終相談される円満な人柄であったようだが、いったん研究室にはいれば人格は一変した。人づかいの荒さにかけては例を見ない。ちょっとでもモタモタしたり、回診の時、こちらに手落ちがあると、激しいかみなりが落ちた。人を人とも思わないと言ったら言いすぎになるだろうか。研究室の古い雑誌を整理した時、どうやら先生の必要な雑誌も捨ててしまったらしい。「どこへやった、早く捜してこい」と、ものすごい剣幕でどなりつけられたのを今でもはっきり覚えている。だが、おこったあとはケロリとしてもう次の仕事に取りかかっておられる。頭のチャンネルの切り替えが実にすばやい。神経をとがらせて回診していたかと思うと、次はタイプを機関銃のようにたたいて論文を仕上げる。前のことはすっかり忘れ、新しい仕事に没頭出来る能力は、小憎らしいほどであった。こんな調子だから研究の成果もどんどん上がる。脚気の研究に始まり、横隔膜のトーヌス(緊張)が交感神経によって行なわれることを証拠づけ、さらに随意筋の四重支配学説、進行性筋ジストロフィー症の研究へと発展していく。

先生の天才的なひらめきが遺憾なく発揮されたのは、横隔膜トーヌスの研究から進行性筋ジストロフィー症の研究へとつながっていったいきさつがあげられる。ある日、横隔膜トーヌスの実験が終わり、しばらくおいてあったサル(横隔膜支配の交感神経は取り去ってあった)の横隔膜を通りがかりにちらっと見た瞬間、先生の目はキラリと光った。横隔膜が萎縮して薄くなっている、これは交感神経を取り去ったからではないのか、と直感的にひらめいたのである。このひらめきは的を射ていた。ほかの人なら、そうしたわずかの変化にはおそらく気づきもしなかったであろう。だが呉先生は違った。自分の知らないことなら、どんな些細なことにも異常なほど興味を持ち、解明するまでスッポンのように食らいついた。どんらんなまでの知識欲おう盛な方であった。

ところで、それらの研究には、自律神経の問題がつねに一枚かんでいた。かくて先生はしだいに自律神経学者となり、ついに脊髄副交感神経の発見という偉業を立てられたのである。昭和14年にはこの業績によって学士院恩賜賞を授けられた。おなくなりになる前年のことである。さらにノーベル賞候補に上ったことも事実である。元国連大使で一高時代朶寮二番で同室だった松平康東君によれば、武者小路公共氏がスウェーデン大使の時、ノーベル賞委員会にリストアップされたという。しかし、わが国が枢軸国の一員ということで受賞までには至らなかったそうである。

いずれにしろ、世界的な学者であった。論文を作成すれば、まず外国、特にドイツに向かって発表された。自分の仕事は世界的なものであると自負され、日本の実力を海外に示さんと獅子奮迅の努力をされたのである。外国語の発表論文104種日本語のものが70種というのを見てもわかる通り、先生の名声は国内よりもむしろドイツ、英国あたりの方で高かったほどである。

絵もくろうとはだしで、帝展にも何回か入選、軽妙洒脱な随筆も得意で本も出しておられる。まごうことなき天才であった。先生の業績は確かに偉大ではあるが、今日、幾多の異説もある。私自身、反証をあげられるものも少なくない。しかし、その敷かれた道は太く、正しい。そして呉先生の自律神経の研究は、やがて私の終生の研究として受け継がれていくのである。

私は呉教授のシゴキを敢然と受けて立った。分厚い本を渡し、「あすの朝までに翻訳して抄録してこい」と、こともなげに言われる。こちらは徹夜でやりとげる。負けてたまるかというわけである。こうした日々が切れ目なく続くものだから、「君、どうせ開業するだろう。そんなにやったって、ためになることは少ないよ」と、同情とひやかしの混じり合ったあきれ顔で忠告してくれる先輩も何人かいた。しかし私は、医局に籍を置きながらごろごろしていたってしょうがない、やれるところまでやれ、と死にもの狂いで取り組んだ。

そんなある日、呉先生が「おい冲中、ちょっと話がある。教授室まで来るように」と言われた。瞬間「あ、またかみなりだな」と覚悟を決めた。部屋におうかがいすると、先生は相変わらずむずかしい顔をしておられる。「手落ちだとすると何だろう」私は、一両日をふり返ってみたが、それらしいことは浮かんで来ない。

「君、この秋に初の国際神経学会がスイスのベルン市で開かれる。私はこれに出席して講演することになっているのだが、ひとつ一緒に来てもらえないか」

私は息をのんだ。昭和6年のことだから、医局入りしてまだ3年にしかならない。医者のヒヨコであり、もちろん博士号もまだとっていない。その私をあろうことか国際会議に連れていくという。当時は国際的な学会に出席することさえ非常に珍しかった時代に、先輩諸兄をさしおいて、30歳前の私を名ざしされたのだから、驚かない方がどうかしている。

私はすぐ、養父盤根に事情をしたためた手紙を書き送った。磐根の喜びは私以上であった。「将来、私の跡を継ぐのに、外国へ行ったと言えば、なんといってもハクがつく。これから先、二度と洋行のチャンスはなかろうから一世一代のつもりで行ってこい。金はなんとかする」と言うのである。磐根は太っ腹の人であったのであろう。立派な屋敷やたくさんの田畑も持っていたが、「田んぼを残したってしょうがない」と言って田畑を売り、渡航費用になんと3千円余の大金を用意してくれた。当時の3千円といえば、会社の部長クラスが、かなり広い土地付きの家を買い求めた値段だという。なにしろ大学卒の初任給が70円-75円、背広がその半分程度、福神漬け付きライス5銭、レストランのライスカレー25銭という時代である。

ところで呉先生がなぜ私を選ばれたのか腑に落ちない。組織の顕微鏡標本を作るのがうまかったこともあろう。英語の読み書きが多少得意だったから通訳のつもりだったのかもしれない。呉先生は独協出身で、ドイツ語は得意だが、英語はへたくそであった。のちには五十の手習いで、英国人について英会話を独習されたほどである。

それらの理由もいくらかは的を射ているが、本当のところは、文句ひとつ言わないカバン持ちが入り用だったようだ。実際、行動を共にした時は、必ず大きなカバンを持たされ、フウフウ言いながらあとを追っかけたものである。カバンには論文集、顕微鏡標本、その写真などがぎっしり詰められていた。手にするとずしりと重い。随行といえば聞こえはいいが、ていのいいカバン持ち兼英語通訳兼下男みたいなものである。先生は帰国後、親しい友人に「冲中は背も高いが力があるんだなあ。あんな重いカバンは、私なら2、3分も持ち歩けないのに、いつも持ってついてきたよ」ともらされたそうである。

今にして思えばこの洋行は、私が研究者として踏み出す第一歩であったのかもしれない。その時は単に"ハクをつける"ぐらいにしか考えていなかったのだけれども。

昭和6年4月4日、私たちは横浜港から貨客船日枝丸船上の人となり、まず米国へ鹿島立ちした。先生の大きなカバンの中には、研究関係以外のものとして、二本の扇子が入れられた。「とにかく入れておけ、何に使うかはあとで教えてやる」と言われ、急いで買い求めたものである。

二本の扇子を、40年たった今も私は大切に保管し、時おり取り出して感慨にひたりながらながめる。そこには、欧米各地で訪問し、懇談した高名な内科学者、生理学者等約30人のサインがひと折れごとに書いてある。

サインをもらう時が傑作だった。呉先生が「やあやあ」とか言って、しばらく論談されたあと、私にひょいと合図をされる。すると私がツツーと進み出て「サインをお願いします」とやるわけだ。血液型を発見したK・ランドスタイナー(米)、筋肉の熱産生に関する研究で有名なA・V・ヒル(英)、神経生理の大家C・S・シェリントン(英)、神経の化学伝導学説を打ち出し、私の後の研究とつながりの深いH・Hデール(英)、条件反射学説のI・P・パブロフ(ソ連)といったノーベル賞受賞者の直筆が並んでいる。

さらには呉先生が若い日お世話になった血圧調節神経の発見者H・E・ヘーリング(独)、わが国の病理学者のほとんどがわらじをぬいだL・アショフ(独)、副腎アドレナリン物質発見のE・S・シェーファー(英)、自律神経研究の第一人者L・R・ミューラー(独)らの名前もみえる。彼らの一語一語はずしりとした重みがあり、魂を吹き込まれる思いであった。

呉先生は当時、「米国に行ったって勉強することなんかないよ」と、米国を軽く見、ドイツ医学を非常に高く評価しておられた。第一次大戦ごろまではドイツ医学が最高峰であり、米医学界は暗黒時代であったのだから、無理もない。その米国医学が第一次世界大戦前後から急速に台頭してきたのには次のような大改革が断行されたからである。

19世紀に、米国の医学校は激しい細胞分裂のようにふえ、米国とカナダで457校にものぼった。ろくろく教育も受けない未熟な医者、悪徳医者がどんどんはびこったのは当然の成り行きである。こうして世の非難を浴び始めた時、改革の先鞭をつけたのは、バルチモアの大金持ちジョンス・ホプキンスであった。彼は世界をリードしていたドイツ医学を初めて輸入し、19世紀後半、ジョンス・ホプキンス大学を創立、近代的な医学校・病院のひな型を示した。

しかし堕落した医学校を一挙に粛清し、今日みるような高いレベルに引き上げた原動力はアブラハム・フレクスナーがまとめた「米国およびカナダにおける医学教育に関する報告書」(1910年)である。彼は医学校を徹底的に査察し、ありのままをまとめたのである。この報告書を受けた米国医師会は、政府の手を借りず、不良医学校をつぎつぎと粛清していった。1949年には、米国、カナダで72校にまで絞ったという。医療・医学に携わる者が、独自の力で改革を遂行した努力は高く評価してよく、曲がりかどにあるわが国の医学界にも示唆するものがあるのではなかろうか。呉先生が米国を低く見られたのも、そうした過渡期の混乱をよく知っておられたからである。

話を元の戻そう。昭和6年の洋行では、まず米国に3週間滞在、ロンドンを経て、ドイツにはいった。ここで呉先生といったん別れ、内科学のメッカ、ベルリン大学のシャリテ・クリニクでベルグマン教授につき、約4カ月間、研究生として新しい知識の吸収に励んだ。その後呉先生と合流して第1回国際神経学会に出席し、フランス各地を訪れたのちマルセイユから箱根丸に乗り、帰途についた。神戸港には秋も深まったころ着いたように思う。

ベルグマン教授のところでは、見るもの聞くものが「さすが」と感嘆することばかりであったが、"みやげ"もたくさん持ち帰った。そのひとつに胃のレントゲン検査のベルグ法がある。そのころわが国の胃レントゲン検査は硫酸バリウムを飲んで胃の輪郭を見る方法は知られていたが、胃のレリーフ(ひだ)像も見られるベルグ法は取り入れていなかった。私はこの方法をおぼえて帰り、装置を輸入した。以後、胃かいよう、胃炎の発見は段違いに向上したのである。

さらに腹腔に空気を入れて広げ、眼鏡を差し込んで内部をのぞき込む腹腔鏡も買って帰ったし、胆のうの経口的間けつ的撮影法も紹介した。胆のうのレントゲン撮影は困難なものとされていたが、造影剤を一定時間おきに飲ませる方法によって、非常によく映る。

いずれも今日ではさらに技術が進歩し、一層よい方法が開発されているが当時としては画期的な方法だったわけである。

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