私は虎の門病院前期レジデント課程終了後も運よく同病院後期レジデントに採用されました。後期課程での最初のローテイト先は、分院肝臓科でした。1980年代の肝臓科は部長が海軍兵学校出身であり、レジデントからは"月月火水木金金"の世界、すなわち、土日のない世界と言われておりました。分院肝臓科のスタッフは部長以外に、医長1名、医員1名の3名がおられ、入院患者数は約40名でした。レジデントの受け持ち数が15人前後で、医長が5人、医員が20人と、医員の受け持ち数がレジデントの受け持ち数よりも多い状況でした。ローテイト初日、午前7時すぎに出勤しましたら、スタッフの先生方は全員が出勤しておられ、医長の先生より、「オーダー・処置は済ませておいたから」といわれ、愕然としました。翌日は6時半にまいりましたが、同じような結果でした。そこで朝5時に出勤しましたら、5時半から6時ごろスタッフの先生方が出勤されていることがわかりました。肝臓科スタッフは、本院・分院で週4-5単位の外来に加え、内視鏡検査、腹部超音波検査、腹腔鏡・肝生検、血管造影検査等の検査に加え、食道静脈瘤あるいは肝癌の内科的治療等を担当いていました。加えて朝8時からは肝庇護剤である強力ネオミノファーゲンシー等の注射の為に100名前後の患者さんがみえましたので、その処置をあり、朝8時以前に病棟をひとまわりして、朝の回診を済ませておく必要があるとのことでした。昼間の勤務を終え、夕の7時ないし8時ごろから、研究に入り、夜11時ごろ病院を後にする生活をしておられたと思います。しかも、このような生活を、祭日・日曜も継続しておられ、肝臓科は、まさに戦前の"月月火水木金金"のに踏みいった世界でした。しかしながら、患者さん・他のスタッフへの思いやり(恕)、上下一心、公益最優先の理念をもち、将来的には、ウイルス性肝炎を治癒に至らしめるという大きな目標を持っておられたようです。
私は、レジデントでローテイトは3か月の予定でしたが、私の後はローテイトが空白でした。そこで、病院側からの要請により肝臓科でのローテイトを継続し、このような縁で、肝臓科での診療を継続することになりました。通常、ひとが進路を決める場合には、積極的で勢いがある、自分の特技が行かせる、公益に役立つ等を基準に選択されておられるが、私の場合は、肝臓科を選ぶのが、他の科を選ぶよりは虎の門病院の利益になると考えて判断したわけです。論語に『知好楽』という言葉があります。「これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」という内容です。やりたい仕事をさがすより縁によってはじめた今の仕事を好きになる、あるいは今の仕事を楽しく行えるようになることが肝要である、というように解釈されてもいます。この箴言により肝臓科を専攻しました。
私が肝臓科で診療をはじめたころには、患者さんのインターフェロン、グリチルリチン製剤(強力ネオミノファーゲンシー)等の注射が、外来でも行っておりました。多くの患者さんより「強力ネオミノファーゲンシーを打って本当に肝癌は減るのですか?」 「インターフェロンでウイルスが消失すれば、どの程度肝癌は減らせるのですか」というような質問を繰り返して受けました。また、注射を依頼している先生方からも、「トランスアミナーゼは下がりますが、長期的には生命予後はどうなんですか」等の質問がありました。
以上のような質問に対する根拠ある回答をできるように、日常診療を中心に得られた成果を論文にし、診療関係者の方々に役立つように多少とも努めてまいりました。最初の10年間は、主として和文原著が中心で、卒後10年あまりの期間にFirst nameで30程度の和文原著論文を記しました。その後は、原則、英文で記載するようにしました。そのきっかけは、1990年ごろの消化器病学会で名古屋大学の教授より当院の演題発表後、「虎の門病院からは、学会での講演、演題に加え、和文の論文はたくさんでていますが、和文で書いてもそれを読むのは日本人だけ。価値は落ちますよ。英文で書いて世界の医療関係者に研究成果を発信することを祈念します」という助言を受けました。そのとき以降、二十数年に亘り研究成果を、英文で記し、世界に向かって発表するようにしました。これが二十数年続いた為、査読のある英文原著はFirst nameで70本(共同著書とあわせると計360本)となりました。肝臓関係では、Hepatology, Journal of Hepatology等で採用され、癌関係ではCancer, Oncology, 内科一般では、Nature Review, American Journal of Medicine, Lancet等にも掲載されました。虎の門病院での診療で得られたエビデンスを公にし、世界中の医療関係者の方に多少なりとも参考になればとの思いで、論文を記載いたしました。
日常診療に携わっておられる医師・保健婦・看護師・診療技師・事務等の方々は、診療スキルを上達される為に、日々努力されておられます。しかしながら、ひとりの経験は、どうしても狭く浅いものになりがちです。自分以外の多くの人々の経験あるいは知識を少しでも共有できれば、診療スキルの上達が期待できます。プロシャの鉄血宰相といわれたビスマルクは「賢者は歴史より学び、愚者は経験より学ぶ」と述べているように、多くの方々の経験を書物により学べば、一人の経験では数多くの事項を経験したと同じように知ることができ、日常診療にも役立てうると考えられます。
多くの医療関係者は、ご自分の経験に加え、先人・先輩方が残された書物・文献等より数多くの知見を得、必要なノウハウを学び、ひとり立ちできるようになるのではないかと思います。日常業務においては、失敗とかつまずきととかはよく経験されることです。自分の、後から来る人々に、再び同じような失敗とかつまずきを繰り返させるに忍びないという一念からガイドラインあるいは論文などは出来上がっています。論文は、後ろから来る人に、この道を辿れば無難に目的に達することができると説き示した道標とも考えられます。自分は先人の助けをかりて現在あるのだと考えれば、自分が専門医となり、日常診療あるいは研究で新知見を修得した場合にはこれを公に公表し、自分の歩みで得られた知見をあとから追ってくる後進の人たちに、記して伝え残しておくことが義にかなったことだといえます。
主な論文
Arase Y, Kobayashi M, Suzuki F, Suzuki Y, Kawamura Y, Akuta N, Kobayashi M, Sezaki H, Saito S, Hosaka T, Ikeda K, Kumada H, Kobayashi T. Effect of type 2 diabetes on risk for malignancies includes hepatocellular carcinoma in chronic hepatitis C. Hepatology. 2013 ;57:964.
Arase, Y. Impact of adherence to combination therapy for hepatitis C Nat. Rev. Gastroenterol. Hepatol. 2011; 8, 248.
Arase Y, Suzuki F, Suzuki Y, Akuta N, Kobayashi M, Kawamura Y, Yatsuji H, Sezaki H, Hosaka T, Hirakawa M, Saitoh S, Ikeda K, Kobayashi M, Kumada H. Sustained virological response reduces incidence of onset of type 2 diabetes in chronic hepatitis C. Hepatology 2009; 49:739.
Y Arase, K Ikeda, F Suzuki, Y Suzuki, S Saitoh, M Kobayashi, et al. Long-term outcome following HBsAg seroclearance in patients with chronic hepatitis B. Am J Med 2006;119: 9.
Y Arase, K Ikeda, N Murashima, K Chayama, A Tsubota, et al. Time course of histological changes in patients with a sustained biochemical and virological response to corticosteroid withdrawal therapy for chronic hepatitis B. Am J Gastroenterol, 1999;94: 3305.
Y Arase, K Ikeda, N Murashima, K Chayama, A Tsubota, I Koida, et al. The Long-term efficacy of glycyrrhizin in chronic hepatitis C patients. Cancer, 1997;79: 1494.